近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら
知覧特攻平和会館にやってきました。

館内は撮影禁止。
(他の同様な祈念館等では、一部(著作権、肖像権などが侵害されない製造物など)は撮影が出来るが、なにゆゑ此処は全館撮影禁止なのだろう。帰りにお聞きしたが、要領を得ない答えしかなかった。)
特別攻撃隊員の遺影や遺品が展示され、出撃の場面を撮影した貴重な
映像も放映されていた。
また、「震洋五型」「陸軍一式戦闘機隼」「陸軍三式戦闘機 飛燕」
「陸軍四式戦闘機 疾風」「零式艦上戦闘機五二丙型(前部半分のみ)」
などの実物展示もありました。

ミュージアム知覧
こちらは、民族・風俗博物館でした。(こちらも撮影禁止)

敷地の端には「ラーメン屋さん」がありましたが、やってないので、
周辺の陸軍知覧飛行場の現存構造物を見にいきました。

南九州市指定文化財 油脂庫
この場所は知覧教育隊本部地区の北側にあたり、周囲には燃料置き場や弾薬庫がありました。壁面には荒々しい円錐状の窪みが何箇所も刻まれています。
これは昭和20年3月以降、米軍から空襲を受けた時の傷跡です。
当時からこの場所にあったもので、レンガ造りで表面はコンクリートで覆われた構造になっています。


続いて、弾薬庫です。


飛行学校の訓練を行っていた教官たちが実弾による射撃を行っていました。
長い吹流しをロープで引いて飛び、その上方、下方から射撃の練習を高等練習機である97式戦闘機で行いました。
飛行学校は昭和18年の夏に知覧教育隊となりますが、その訓練用実弾の倉庫跡です。
知覧飛行場の遺構周辺は、静かな住宅地となっていました。


給水塔跡
給水塔跡 飛行場には台地にあるので水の確保に苦労しました。町の麓を流れる思い川から取水しポンプアップして高架式のタンクに貯水しました。戦時中は真っ直ぐ立っていましたが、地盤が悪かったため、現在ではピサの斜塔の様に少し傾いています。高さは約13m、直径は約6mあります。


防火水槽です。

防火用の水槽で、もともとは3基ありました。残る1基が私有地にあったため、平成16年に現在の場所へ移築されました。
お椀型に地面が掘られ、直径は約10mあります。
現存構造物の後は、特攻の母と言われた鳥濱トメさんが経営していた食堂
富屋食堂へ向かいました。

富屋食堂は、「ホタル」や「俺は、君のためにこそ死ににいく」など多くの
特攻を扱った映画に出てくる場所です。

映画ホタルの富屋食堂
元特攻隊員と、病に冒され余命いくばくもない妻との夫婦愛を、昭和の終わりを背景に描いた、高倉健主演の映画「ホタル」(降旗康男監督)の軍指定「富屋食堂」。
富屋は、軍指定の食堂でした。特攻隊員たちの憩いの場そして家族との別れの場となりました。食堂のおばさんは、隊員から慕われ、戦後に「特攻おばさん」と呼ばれました。
旧富屋食堂は、若い特攻隊員たちに母親のように親しまれた故・鳥濱トメさんが経営していました。映画の中の、ホタルの帰ってくるシーンや、金山少尉がアリランを歌う感動的シーンは、東京近郊に再現されたオープンセットの中で撮影されました。
-案内板より

当時の場所に忠実に復元された富屋食堂、
資料館として特攻隊員の遺品や写真などが展示されています。

現在営業中の富屋旅館(食堂)

大切な人、家族を守るため、そして、それらの人が住む祖国日本=未来の日本人を守る為に自らの命を懸け、自らを犠牲に戦ってくださった方々は、真に尊敬すべき方々である。それらの神になられた方々の事を語り継ぐのは大切な事だと思うが、同時にそのような状況に至る経緯や原因の解明・分析・説明がされていないのが各地にある「平和」とつく祈念館・史料館。掲示されている感想などを見ても、実際に自分が見て受ける印象も「悲しく、悲惨」のみしかない。(その様な概念で造られた所だから仕方ないのかな)。何もしなければ「平和」が保たれる訳ではなく、ましてや憲法九条があるから平和なのではない。(奴隷の平和ならあるかもしれないが…)先の大戦後は、局地的な戦争しか起きておらず、幸いにも日本は大国の思惑からチカラの均衡が保たれて戦場にはなっていないが、「チカラがあれば領土を広げても良い」などと考える国がチカラをつけ、均衡が崩れてしまった昨今、日本人一人ひとりが真剣に考えないとならないのではないか。そのためにもこの様な施設も役立つ存在になって欲しいものである。
全ての兵者に敬意を表しますと共に、英霊の御霊に感謝の誠を捧げます。
つづく
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