~西へ~(239) 42日目③ 旧陸軍知覧飛行場(知覧特攻平和会館)Ⅰ | どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

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「野宿でもお腹に肉のつく身哉」

日本一周・全県に足跡を目標に、車中泊やキャンプをしながら、
大好きなラーメンを食べ、100名城を中心にした城めぐりや
神社仏閣に参拝し御朱印を頂く、旅の絵(写真)日記です。

    
                    近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら


知覧武家屋敷群から「旧陸軍知覧飛行場(知覧特攻平和会館)」に。

   

 陸軍知覧飛行場
昭和十七年、大刀洗陸軍飛行学校の知覧分教場として開設され、
少年飛行兵や特別操縦見習士官が訓練を重ねたが、戦局の悪化に伴い
昭和二十年、陸軍特攻基地となり多くの特攻隊員が出撃しました。

  
  特攻像「とこしえに」の由来
 碑文
特攻機は、遂に帰って来ませんでした。国を思い、父母を思い、永遠の平和を願いながら、勇士は征ったにちがいありません。
特攻像「とこしえに」は、全国の心ある人々によって建てられました。
み霊のとこしえに安らかならんことを祈りつつ
りりしい姿を永久に伝えたい心をこめて
あゝ
開聞の南に消えた勇士よ


        

先ずは、知覧町護國神社に拝礼いたします。

        

        

知覧護國神社は、明治二年、戊辰の役の戦没者を祀ったのが始りで、
のち西南の役から大東亜戦争(WWⅡ亜細亜太平洋戦線)までの戦没者を
順次合祀しました。昭和三十四年現在地に遷座。


 

 一式戦闘機 隼
四式戦闘機「疾風」(キ84)とともに帝国陸軍を代表する戦闘機として、大東亜戦争における事実上の主力機として使用された。総生産機数は5,700機以上で、旧日本軍の戦闘機としては海軍の零式艦上戦闘機に次いで2番目に多く、陸軍機としては第1位。

       
     やすらかに
 碑文
特攻隊の若い命は再び帰らず。
出撃の瞬間まで求めたであろう母の姿。
この晴姿をせめて母上に一目最後の別れと、お礼を一言。
胸を張り裂けそうな、その心情は、母もまた同じであったろう今ここに立つ母の姿
とこしえに母と共に安らかに
母の温かいみ胸で、御霊の安らかならんことと世界・平和を祈念して。
   昭和六十一年三月三十日   熊本県芦北町 前田将



 知覧基地 特攻隊の歌
一   ああ薩南の此の地より  敵撃滅の命を受け  まなじり決し若人が
     翔び立つ姿尊しや  その名特別攻撃隊  
二   ああ明日はなき此の命  胸に秘めたるその覚悟  祖国の平和念じつつ
     南の空に翔び立ちし  その名特別攻撃隊
三   ああ今此処に銅像の  勇士の姿仰ぐとき  国を護りしつわものの
     勲は永久に薫るらん  その名特別攻撃隊


全ての兵者に敬意を表しますと共に、英霊の御霊に感謝の誠を捧げます。





                                 つづく







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