~西へ~(230) 41日目② 指宿海軍航空基地Ⅱ | どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

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「野宿でもお腹に肉のつく身哉」

日本一周・全県に足跡を目標に、車中泊やキャンプをしながら、
大好きなラーメンを食べ、100名城を中心にした城めぐりや
神社仏閣に参拝し御朱印を頂く、旅の絵(写真)日記です。

    
                    近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら


指宿市東方、田良浜の「指宿海軍航空基地跡」に着ております。



指宿海軍航空基地は、水上機*を使用しての索敵訓練及び対潜哨戒、
船団護衛等の任務に従事していたので滑走路はありません。
 *水上機:船型の機体構造、あるいは浮舟(フロート)のような艤装を持つことによって、水上にて離着水できるように設計された航空機


 防空壕跡(コンクリート壕)

         
          防空壕跡(コンクリート壕)海側


 基地の由来
指宿海軍航空基地は水上機の基地として昭和19年1月1日に開隊し第453海軍航空隊(旧宿毛空を改編)の基地となり同年12月15日、第951海軍航空隊に統合され同隊指宿派遣隊となった。配備されていた零式水偵(三座)、九四式水偵(三座)、零式観測機(二座)にて索敵訓練及び対潜哨戒、船団護衛等の任務に従事していた。尚佐伯空の派遣隊が二式練艇にて大型機操縦の訓練と九州南方海域の対潜哨戒を実施していた。沖縄戦が始まると南西諸島方面索敵の要衝の基地となり水偵増援のための佐世保空、串本空、大湊空、偵察302飛行隊(瑞雲)等の派遣隊が飛来した。此の頃より未帰還機が出る様になった。昭和20年4月1日沖縄本島に米軍が上陸、4月下旬に至り制海権、制空権共に米軍の手に落ち、沖縄戦に於いてはやがて特攻機の不足から水上偵察機も特別攻撃隊として使用された。参加した水偵機は、零式水偵と九四式水偵(北浦空魁隊、詫間空琴平水心隊)、零式観測機(天草空第12航戦、福山空琴平水偵隊)の三機種であった。尚当基地は3月18日、米艦載機の攻撃に始まり5月5日のB-29に依る爆撃で壊滅的被害を受けた。
-案内板より




防空壕の上部に続く階段の参道を上ると慰霊碑が建っております。


神風特別攻撃隊して飛び立っていった82名と基地攻撃(爆撃)による
殉職者100余名。の部隊名、氏名、出身県が刻まれた
「指宿海軍航空基地戦死者及び殉職者」の碑


 指宿海軍航空基地哀惜の碑
  碑文
君は信じてくれるだろうか
 この明るい穏やかな田良浜がかつて太平洋戦の末期 本土最南端の航空基地として琉球弧の米艦隊に対決した日々のことを
 拙劣の下駄ばき水上機に爆弾と片道燃料を積み 見送る人とてないこの海から万感をこめて飛びたち遂に還らなかった若き特別攻撃隊員が八十二人にも達したことを
 併せて敵機迎撃によって果てた 百有余人の基地隊員との鎮魂を祈ってここに碑を捧ぐ
戦いに生き残った者と 心ある指宿市民によってこの碑を建てる 1971年5月27日


        
 海軍飛行予科練習生 特乙九期第一〇三分隊 訓練之地


 昭和53年、枕崎市沖(水深400m)にて発見


 慰霊碑の前に広がる海・錦江湾


全ての兵者に敬意を表しますと共に、英霊の御霊に感謝の誠を捧げます。





                                 つづく







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