近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら
鹿児島城(鶴丸城)本丸跡に建つ黎明館を見て、すぐ隣に鎮座します、
照國神社に参拝です。


照國神社の御由緒
御祭神 照國大明神(薩摩藩主島津家28代島津斉彬公)
御祭神は文化6年(1809年)薩摩藩主島津斉興公の御嫡男として江戸で御誕生になりました。
幼少の頃曾祖父島津重豪公や母賢章院の薫陶を受けられ、学問を好まれ、広く世界に眼を向けた開明的な考え方と科学的な知識を身につけられました。
公は嘉永四年(1851年)43歳で藩主に就任されるや、幕末の内外多事多難な状況に対応して国事に奔走、欧米諸国のアジア進出の情勢を踏まえて、日本を強く豊かな国にするため、積極的に西洋の科学技術の導入に努められました。
さらに、その核となった日本初の西洋式工場群「集成館」を鹿児島に設置され「富国強兵」「殖産興業」という理念のもとに、近代日本の礎をお築きになったのです。
また、公の発案による日章旗(日の丸)の制定は、まさに日本が国際社会にその一歩をしるした象徴であります。
公は安政2年(1858年)50歳で薨去されました。
御治世僅か7年でありましたが、この間、明治維新に活躍した多くの人材を育成しておられます。
文久3年(1863年)には御生前の幾多の御事蹟を称えて、勅命により照國大明神の御神号授けられました。
そして一社を南泉院の郭内に創建し、翌元治元年照國神社と称しました。
当社は明治六年県社、同十五年別格官幣社に列格せされ、今日鹿児島県の総守護神・氏神様として崇拝されております。
-案内板より

神門


神門の社号額 神門の扉にも島津家家紋「丸に十字」

社殿
創建時の社殿は権現造、明治10年(1877)西南の役の兵火に罹り焼失、仝15年(1882)建設流造、更に仝37年(1904)改築、昭和20年(1945)8月戦災により焼失、仝28年(1953)本殿、仝33年(1958)拝殿、仝42年(1967)神門を夫々再建し、仝62(1987)東授与所、仝63年(1988)西授与所を建設し、平成6年(1994)御鎮座130年記念に幣殿を拡張した。 -照國神社公式Webより

御事績
齊彬公は天資聡明であられ、当時三百諸侯のなかでも稀に見る偉材と称えられておりました。幼少より学問を好まれ、蘭学を始め多方面に業績を残されており、開明的な考えと、科学的な知識を持たれ、海外の情勢に最も明るい大名でありました。
江戸幕末、国の内外多事多難な前途を克く洞察され、その対策として積極的な西欧文明の導入による集成館事業は、反射炉設置、大砲製造、蒸気船建造、洋式紡績工場開設、日章旗制定等、多くの業績を残し、国力増強と殖産興業により、人々の生活向上と、外国の勢力に左右されない国の安定を図られたのです。
又、敬神の念篤く、尊皇尽忠を基として、学問を奨励し、身分にかかわらず有能な人材を養成されたために、西郷隆盛、大久保利通等、幾多の人材が輩出し、明治維新大業の原動力となられた方で、治世中の業績は貴く大きく、近代日本の礎を築かれた大恩人であります。
今もなお語り継がれる齊彬公の偉大な御事績
人々は、生前の御遺徳を慕い崇敬の念をよせる
そんな想いと願いによって照國神社は創建されました
当時は欧米露等の列強が押し寄せ、まだ鎖国の時代、齊彬公は、外国船と区別するためにも日本の印が必要であると感じ、「日の丸」を総船印にすることを幕府に提案しました。単に薩摩藩というより日本国を強く意識していたのです。
齊彬公は、鹿児島の技術者と共に大砲を鋳造しました。この大砲を乗せた日本初の西洋式軍艦が「昇平丸」です。幕府は長い間、大船(軍艦)を造ることを禁じていましたが、齊彬公らの働きかけにより、解禁しました。そして、「昇平丸」は、幕府に献上され、初めて日本の総船印として「日の丸」が掲げられました。
-照國神社公式Webより

国旗「日の丸」制定由来
碑文
照國神社の御祭神島津斉彬公(照國公)は、幕末、日本を強く豊かな国に生まれ変わらせようと尽力なさいました。公が力を注がれた事業の一つが造船事業で、いずれも我が国初の本格的な洋式軍艦昇平丸や蒸気船雲行丸などの建造を手がけられました。嘉永6年(1853)大型船十二艘、蒸気船三艘の建造を幕府に申請された公は、日本の総船印として日の丸を掲げ、日本の船と外国の船を区別してはどうかと幕府に提案なさいました。翌安政元年(1854)7月11日幕府は公の提案を容れて日の丸を日本の総船印と定め、安政二年春、幕府に献上するために鹿児島を出港した昇平丸に初めて日本総船印として日の丸が掲げられました。万延元年(1860)には国旗へ昇格、明治3年(1870)1月27日には、明治政府もまた日の丸を国旗と定めたのです。
平成二十二年一月二十七日 照國神社 宮司 島津 修久


贈正一位島津齋彬公之像
御祭神 照國大明神 島津齋彬
島津斉彬公(1809~1858)薩摩藩28代藩主
島津斉彬公は、文化6年(1809)薩摩藩主の27代島津斉興なりおき公の嫡男として誕生なさいました。
母は鳥取藩主池田治道の娘賢章院けんしょういんです。
海外の文化に強い関心を示された曽祖父島津重豪公に可愛がられ育てられたため、斉彬公も海外の情報・文化に精通されるようになりました。
そして、アヘン戦争(1840~1842)で、アジアの大国・清国がイギリスに敗れたことから、西欧諸国の植民地化政策を恐れ、斉彬公は、日本がひとつにまとまり、強く豊かな国づくりを目指すべきだとお考えになりました。
そして、嘉永4年(1851)藩主になられると、鹿児島の磯に「集成館」と言う工場群を築き、ここを中心に、造船・製鉄・紡績・電信・ガラスなどの様々な事業に取り組まれました。
また、人材育成のため教育にも力を注がれ、西郷隆盛や大久保利通など有能な人材も育て上げました。
斉彬公は、安政5年(1858)、世を去られましたが、日本を強く豊かな国に生まれ変わらせるという夢は、弟の島津久光公やその長男忠義ただよし公、さらに西郷隆盛や大久保利通ら多くの家臣の手で実現されました。
この斉彬公の銅像と、隣接の探勝園内にある久光公・忠義公の銅像は、大正6年(1917)彫刻家の朝倉文夫(1883~1964)によって作製されたものです。
-案内板より


戊辰之役戦士顕彰碑
碑文
戊辰之役とは慶応4年(1868)1月、京都鳥羽伏見で薩摩長州両藩が徳川幕府討伐の戦端を開き、翌年5月函館五稜郭の幕府軍を降した戦いです。
これによって明治新政府誕生の基が定まり、わが国は近代的な統一国家となり、植民地化を防ぎ、独立が守られました。
当時の日本は、黒船来航以来西欧列強の脅威にさらされ国内では封建制度が行きづまって内外ともに混乱していました。
第15代将軍徳川慶喜が大政を奉還し、新しい政治体制が求められる中で、公武合体派が斬進的改革を主張したのに対し、中途半端な妥協では封建体制は打破できないと薩長両藩は断固として倒幕を進めました。
その結果大局が動き、諸藩連合の新政府軍の中で、薩摩藩は常に先頭に立って奮戦し、この歴史的な大転換劇に最も重要な役割を演じました。
薩摩から8千余名の人々が参戦し、6百名をこえる戦没者と多くの戦傷者を出しました。
このたび我々有志が維新ゆかりのこの地に戊辰之役戦士顕彰碑の建立を発起しました。
戦没者の御霊を弔うとともに、参戦された方々が名君島津斉彬公の遺志をついで西郷隆盛、大久保利通ら優れたリーダーに率いられ、藩を挙げて勇躍新政維新の旗をかざして進まれた勇姿を思い出すよすがとし、併せて戊辰之役に戦没された敵味方慰霊の念をこめてこの碑を建てた次第です。
平成9年9月8日 明治維新 戊辰之役戦士顕彰碑建立期成会
-案内板より


照國神社 御朱印
つづく
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