~西へ~(296) 40日目④ 日本100名城 鹿児島城(鶴丸城) | どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

「野宿でもお腹に肉のつく身哉」

日本一周・全県に足跡を目標に、車中泊やキャンプをしながら、
大好きなラーメンを食べ、100名城を中心にした城めぐりや
神社仏閣に参拝し御朱印を頂く、旅の絵(写真)日記です。

    
                    近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら





南洲神社の次は、鹿児島城(鶴丸城)へ登城します。

     

鹿児島城は、江戸時代初期に島津忠恒によって築かれた、
城山(上山城跡)に詰めの城、その麓には屋形造の鶴丸城
(本丸、二の丸)で構成された平山城であります。


 鶴丸城に架かる石橋

    
「薩摩は人をもって城となす」        (クリックで拡大)
-77万石の本拠は天守閣をもたない屋形づくり-
鶴が翼をひろげた形をしていることから鹿児島城は別名鶴丸城と呼ばれていた。
1601年(慶長6)関ヶ原の合戦の後、島津家18代家久が上山城(城山)の補修と麓の居館づくりを思い立ち、父義弘の「ここは海に近すぎて危ない」という反対を押し切って着工。家久はこの地を政治・経済の中心地として城下町の建設を始めた。まず居館を築き、その周辺に家臣の屋敷を移し、1606年(慶長11)城の前の橋が完成したとされる。
城といっても本丸、二の丸、下屋敷が並び、天守閣や層楼のない屋形づくりだった。これは、「城をもって守りと成さず、人をもって城と成す」という薩摩藩流の思想によるもので、藩内の各所には兵農一致の郷士団が守る外城がめぐらされていた。
城下は鶴丸城を中心に武家屋敷、その外側に上町6町、下町12町、そして西田町4町が設けられ、5000人余りの町人が集められたが、圧倒的に武士の多い城下町だったようである。
維新後は、熊本鎮台の分営として使われ、1873年(明治6)炎上。その後、第七高等学校造士館、鹿児島大学医学部などが置かれ、残されたのは城壁と擬宝珠つきの石橋だけとなった。 -案内板より



  
   本丸石垣と堀



石橋の先には、御楼門がありましたが、 残念ながら明治七年(1874)に、
焼失しました。 残されているのは城壁と堀、擬宝珠つきの石橋だけです。


 本丸への虎口(筋違い虎口)

 
 城山(上山城跡)、本丸跡には「鹿児島県歴史資料センター黎明館」


 御角櫓(屋蔵)跡
平成11年(1999)8月、石垣の補修事業に伴って実施された埋蔵文化財の発掘調査で、 現地表面下約1mの地点で発見された櫓の基礎の一部分である。 「御角櫓」は本丸の南東角に位置し、城の防御とともに美観や威厳を保つ役目を持つ施設だが、 明治初期の資料では、「御角屋蔵」と表現され、物品収蔵施設としての用途もあったものと思われる。 元禄9(1696)焼失し、幕府の許可を得て再建されたが、明治6年(1873)の大火で再び焼失した。
-案内板より


     
         天璋院像



歴史資料センター「黎明館」を見学します。
(一部のみ撮影可でした)



薩摩藩の居城鶴丸城の本丸跡に建てられた県の歴史資料センターです。鹿児島の歴史民俗や文化遺産に関する展示・研究が行われており、貴重な文化遺産が15万5千点も収蔵されています。約3千点の展示品の中で、特に幕末維新の黎明期の資料が充実しています。目玉は、一階のかごしまの歴史コーナーの大型模型で、原始・古代から近現代までを4区分し、それぞれの時代の象徴的な施設や街並みなどを展示しています。ジオラマや映像、クイズなどで、歴史的な時代背景を楽しく学ぶことができ、鎧など試着できる体験学習コーナーもあります。
-旅かごしまWebより



 志布志城 模型



薩摩藩は、77万石(公称)の大名であったが、その居城・鶴丸城には天守など
高層建築や高石垣などは築かれず、代わりに、中世式の山城を各地に残し、
それぞれ家臣に守らせる外城制度を行っていたとされています。






         
           日本100名城スタンプ
             鹿児島城(97)




                                 つづく







                当ブログの無断使用は禁止です。
                      メッセージにて確認をして下さい。その上で、 
                      文章引用・画像使用の場合は出典元URLを明記して下さい。