~西へ~(287) 39日目② 大隅国総社 祓戸神社 | どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

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「野宿でもお腹に肉のつく身哉」

日本一周・全県に足跡を目標に、車中泊やキャンプをしながら、
大好きなラーメンを食べ、100名城を中心にした城めぐりや
神社仏閣に参拝し御朱印を頂く、旅の絵(写真)日記です。

    
                    近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら





「特攻機発進之地の碑」から「大隅国総社 祓戸神社」にやってきました。

       

国分駅から近く、歩道のある車道に面している為、駐車に困りました。

       
  祓戸神社由緒
この社にはイザナギ・イザナミの両神のほか瀬織津姫神・気吹主神・速秋津姫神・速佐順良姫神がお祀りしてあり又、 天満天神社も合祀されている。
祓戸神社という社号は明治五年以降のことでその以前は守公神宮守君神宮であった。
そして大隅国庁の所在地であったといわれるこの地方での総社であり一の宮でもあった。
この社の歴史は古いがその創建の年代は詳らかではない。
しかし大隅の国が日向の国から分離されたのは西暦七一三年即ち和銅六年で今から凡そ一二九〇年程前のことであるがその後、数十年を経て大隅の国の総社として建立されたのがこの社の起源であると言われている。
守公神宮が大隅国庁の総社であったことは今から凡そ七百年程前にかかれたもので今でも調書家に残っている。
文書によれば三十人程の宮ざむらいが交代で奉仕していたと記録されているのでその格式の高かったことがわかる。
島津藩政時代になってもこの地方の尊信を得ていたが歴史は流れ時は去り萬象移り変わり今はわれら府中に氏神として鎮座されている。
   平成十一年七月吉日   祓戸神社氏子一同  -案内板より




 由緒
創建年代は不詳。源八郎為朝が国分隼人城の魔人大人弥五郎を退治の際、進納された大きな法螺貝が社殿に保存されている。
府中は古代から中世にかけ大隅の国衙があり、政治の中心地であった。ここに鎮座する当社は守公神社・守君神社と称され、大隅国にある多くの神社の中心となる総社であったといわれる。
御祭神は、瀬織津姫神・気吹戸主神・速秋津姫神・速佐順良姫神の祓戸四柱の神とされるが、古くは源頼朝・島津忠久・丹後局・住吉大明神の四柱の計七座、或は止上六社権現の六柱を合せ計十三座とも伝えられる。また近くは、諾冊二神を祀るともいう。
明治五年村社に列せられ、社号も祓戸神社と改められた。-鹿児島県神社庁Webより



 拝殿


 拝殿内の額は「守公君神宮」?

     
       本殿


 境内の石像と石祠


 境内の案内板 合祀されている府中天満天神社の由来


 境内の案内板 大隅国建国1300年

   
    征清役従軍記念碑


 社殿側から見た境内(参道左右に門守社)


無人社でしたが、よく手入れされており、地元の
「鎮守さま」として大切にされている事が感じられる社でした。




                                 つづく







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