~西へ~(280) 38日目⑤ 串良海軍航空基地跡(串良平和公園) | どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

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「野宿でもお腹に肉のつく身哉」

日本一周・全県に足跡を目標に、車中泊やキャンプをしながら、
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                    近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら


JAXA 内之浦宇宙空間観測所から次なる地へ。



国道448号→県道542号→県道73号→県道67号と走り、



串良海軍航空基地跡(串良平和公園)に到着です。

    
     滑走路跡

串良基地は、昭和十九年四月に航空機整備員の養成を目的とした
整備員養成練習航空隊として開隊しますが、戦局の悪化に伴い
作戦基地に変更されます。そして、各地の航空隊から部隊が進出、
沖縄敵艦隊に特別攻撃隊として出撃する為の基地となりました。


慰霊碑に手を合わせます。

      
平和公園 (左)
 この平和公園一帯は、旧海軍の航空隊があったところです。
 第二次大戦の末期、教育航空隊として開隊され、約5千人の飛行予科練習生が、航空機の整備、搭乗、通信等の猛訓練を、受けたところです。
 昭和19年4月には、実戦部隊に編入され、さらに、昭和20年3月1日からは、特別攻撃隊の基地となり、終戦までの半年間に、祖国の安泰を祈り、身をすてて南の大空へと勇躍飛び立ち、散っていった若き精鋭たち特別攻撃隊363名、一般攻撃隊202名、合計565名の最後の地となったところであります。
 昭和44年10月1日、串良町及び旧串良海軍航空隊基地出撃戦没者慰霊塔建設期成会が中心となり、平和の礎石となられた英霊の慰霊塔を建立し、戦争の悲惨さを後世に伝えるとともに、人類の恒久平和を願い「平和公園」と命名され、以来毎年10月15日には全国各地から御遺族や生存者が集まり、町民と共に追悼式が行われています。
 慰霊橋の上で、慰霊塔に向かって拍手を打つと、塔の上の白鳩が「クックッ」と鳴きます。
 東西1300m南北1200mの滑走路後の両脇には、桜が植えられ、本土の桜前線はここから始まります。公園内2千本余りの桜は、春にはその花で公園を埋めつくす程になり、大隅半島の桜の名所となっており、毎年4月初旬には、桜まつりが賑やかに開催されてるところです。
-案内板より


串良基地跡慰霊塔 (右)
 碑文
今出撃せんとす  何も思い残すことなし  父母兄姉よ幸福であれ
心爽やかにして大空の如し  こうしているのもあとしばらくです さようなら
太平洋戦争末期斯くして串良  航空基地より飛立ち肉弾となりて
帰らざりし三百有余の御霊よ 安らかれ  必ずや平和のいしずえとならん
昭和四十四年十月十一日
旧串良海軍航空隊基地出撃戦没者慰霊塔建設期成会々長 串良町長 佐枝 潔


 
             串良基地跡慰霊塔



串良基地から出撃し散華した方は、特別攻撃隊363名、
一般攻撃隊202名、計565名(案内板より)

          
    散る桜 残る桜も 散る桜        予科練串良空八期会 翔空



第一岡空若桜会 慰霊之碑 (向かって左)
 碑文
恵みあらば 永遠に平和の続くよう 国鎮め 南無逝きし 御霊よ
憂国の志に燃えて昭和十九年六月 海軍甲種飛行予科練習生・二期生として七五〇名(十五才~十八才)愛知県岡崎航空隊に入隊
同年十二月 遠くは上海(中国)元山(朝鮮)等各基地に配属 我等はマニラ・クラーク基地なるも戦火激しくここに留まる 特攻隊員との送別 その感動いまだ消えず 戦い敗れて甦る平和万感胸に逼りて弔詞に詰まる 今ここに串良同志と共に各基地配属の二期生集いて御霊を慰めんとす 唯一向に合掌あるのみ
  平成三年九月吉日 第一岡空若桜会 串良基地在隊者一同

串良海軍航空隊飛行予科練習生三期生 蒼空和親
 碑文

起死回生を念じ太平洋戦争の真っ只中に集いし若人の霊を慰めん
祖国日本の上空に暗雲漂い始めし昭和十九年七月十五日 憂国の志に燃え ここ串良原頭に集いし十四才から十八才までの若人八百名 串良海軍航空隊予科練習生第三期生として入隊せり
灼熱の太陽の下 また寒風肌刺す高隈おろしに身をさらし 若鷲として国難に殉ぜんと 七つ釦は桜に錨 不橈不屈の予科練魂の養成はもとより 体育 整備学 航空力学 通信 手旗信号等 月月火水木金金の日なりき
昭和二十年一月十五日 教程終了と共に国内はもとより 遠くは釜山 上海 台湾等各実施部隊へ配属 一部は飛練空へと進めるも 戦況日々悪化し台湾方面にて二十九名の戦死者を出し 八月十五日を以って終戦となる陽光うららかな串良の地に 今は亡き友の御霊を弔慰し 人類永遠の平和と繁栄を願い ここに碑を建立す
  平成五年十月吉日 串良海軍航空隊三期生 有志一同


       
百里原海軍航空隊 神風特別攻撃隊 
 常磐忠華隊・皇花隊・正気隊 (左)
 碑文
鎮魂を 願いしままに 年過ぎて 漸くに建つ 朋の墓標
この地はや 発進の地ぞ 平和の礎となり給いたる 四十五柱のみたまよ
南風にのり還り鎮まりませと 祈りつつここに碑を捧ぐ
     平成十七年四月

第九期乙種飛行予科練習生 翔友
 碑文

嗚呼 今茲に万感の思いをこめて建碑せしむ
「海ゆかば みずくかばね」
思い返せば戦雲急を告げる昭和二十年一月十五日 我々は第九期乙種飛行予科練習生として奈良海軍航空隊に 幼な心にも其の国難に殉ずべく大志を抱いて入隊せり 一定の教育期間を終え此の地 串良海軍航空隊を初め全国津々浦々に在せる海軍基地に赴く 時弱冠十四才より十九才の未だ母を慕う少年であった
戦火愈々厳しく各基地で訓練半ばにして我が友が散華していく まさに粉骨砕身 身を鴻毛の軽きにおきであった
嗚呼 無情と言うも仲々おろかなり
然し予科練という誇り高き時でもあった 無敵を誇った我海軍航空隊も戦い我に利なく終戦を迎えて四十五年 我々は若い血潮を滾らせた予科練魂を戦後日本の復興に熱血を注いで来た 
今我々九期生一同も還暦を過迎せり
茲に同期生の賛助を得て記念の碑を建立せしめ 其の名を刻し 我が愛する日本国の永久の平和と繁栄を希い 
今は亡き友の霊を慰めるものなり
    平成二年十月十五日 九期生有志一同


     
海軍攻撃第二五四飛行隊 串良基地派遣隊
 碑文(表)
殉忠の若鷲に捧ぐ
大空に散りし桜の花片を 手に揉みあげて 君が名を呼ぶ
 碑文(側面)
海軍攻撃第二五四飛行隊は 新鋭機天山艦攻で編成された 日本海軍航空母艦部隊最後の艦上
攻撃機隊であり 太平洋戦争劈頭におけるハワイ攻撃以来の栄光と伝統に輝く精鋭部隊である
太平洋戦争中の昭和二十年三月、ここ串良海軍航空基地に派遣隊を設置し 数次にわたり進出
夜間雷撃隊として沖縄周辺の敵艦隊群に対し果敢なる攻撃を敢行し多大な戦果を挙げたが その大部は大空に散華した 終戦四十年を記念し 派遣隊員総員の功績と栄誉を称えるため 海軍攻撃第二五四飛行隊生存者有志一同 ここに記念碑を建立したものである



  串良航空隊の歌の歌碑


全ての兵者に敬意を表しますと共に、英霊の御霊に感謝の誠を捧げます。







                                 つづく







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