~西へ~(271) 36日目⑥ 小村壽太郎生家・めし | どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

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「野宿でもお腹に肉のつく身哉」

日本一周・全県に足跡を目標に、車中泊やキャンプをしながら、
大好きなラーメンを食べ、100名城を中心にした城めぐりや
神社仏閣に参拝し御朱印を頂く、旅の絵(写真)日記です。

    
                    近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら


飫肥城の城下は「伝統的建造物保存地区」に指定されており、
その一角に最も優秀な外交官と言っても過言ではない
小村壽太郎侯爵閣下の生家もございます。

     
  小村寿太郎生家
 明治時代を代表する外交官小村寿太郎は、飫肥城下の町役人の長男として、現在の生誕碑の場所で生まれた。
その後、小村家が破産したため、明治時代後期に、生家は振徳堂の裏に移築され、さらに、大正10年(1921)に現在地に移築されたものである。その後は大きな改修は行われずに現在に至っている。
 飫肥重要伝統的建造物群保存地区における伝統的な建築様式を現在に伝える重要な建物であり、また、飫肥が生んだ明治の大外交官小村寿太郎縁の建物としての価値も高い。
 近年に空き家となって老朽化が著しくなったため、市が改修整備して、平成16年(2004)4月から公開している。       日南市教育委員会
 土地面積 :834.33㎡
 延べ床面積:168.02㎡     -案内板より




屋敷の周囲にも石垣が組まれており、この様な家が何軒もありました。



小村壽太郎侯爵閣下は言わずと知れた、ポーツマス会議日本国全権
として露帝国相手に粘り強く交渉し有利な条件で調印した御人であるが、
他にも日英同盟を積極的に主張して締結したり、幕末以来の不平等条約を
解消するための条約改正の交渉を行い、日米通商航海条約を調印し、関税
自主権の回復を果たしたなど数々の功績を残した偉人であります。



生家の近くには、小村記念館がありました。

    
国際交流センター 小村記念館
 国際交流センター 小村記念館は、飫肥出身の明治の外交官・小村寿太郎 侯の没80周年を記念して、小村 侯の功績を後世に伝えると共に、国際化に対応できる人材育成や文化活動の拠点をめざして、平成5年(1993年)1月16日に開館した。 建物の建築面積は1034 平方メートルで、記念館と国際交流センターからなっている。
 -案内板より


    

 栄典
1891年(明治24年)12月5日 - 従五位
1895年(明治28年)10月31日 - 勲三等瑞宝章
1899年(明治32年)10月21日 - 勲二等旭日重光章
1902年(明治35年)2月27日 - 男爵・勲一等旭日大綬章
1903年(明治36年)7月31日 - 従三位
1906年(明治39年)4月1日 - 旭日桐花大綬章
1907年(明治40年)9月21日 - 伯爵
1908年(明治41年)11月10日 - 正三位
1911年(明治44年)
    4月21日 - 侯爵
   11月26日 - 従二位[16]。
 外国勲章佩用允許
1892年(明治25年)3月30日 - ハワイ王国王冠第二等勲章
1905年(明治38年) - 聖マイケル・聖ジョージ勲章ナイト・グランド・クロス
1906年(明治39年)7月26日 - プロイセン王国赤鷲第一等勲章
1907年(明治40年) - バス勲章ナイト・グランド・クロス
1907年(明治40年) - ロイヤル・ヴィクトリア勲章ナイト・グランド・クロス



   
    直ちゃんラーメン(油津駅の近く)

飫肥城を出て、次なる地に向かいましたが、腹が減ったので、
国道を離れ街中へ。P付ラーメン屋を発見しIN
まだ時間が早いので、貸し切り状態。然程待つことなく着丼。
少し臭みの残る豚骨スープだが許容範囲。麺はツルモチで中々。
小さめだがチャーシューは2枚、モヤシがのる。
宮崎のラーメンは「もやし」が定番なのかな。


 ラーメン+ライス



                              つづく







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