近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら
飫肥城は、丘陵に曲輪を幾つも並べた群郭式の平山城であります。
その曲輪は、本丸の北側に中之城、北之丸、西之丸、松之丸など。
本丸の西側は、旧本丸、松尾丸。
東側先端近くに八幡城と称した城郭があり、そこが城域の東端であった。

南にある大手門の虎口をぬけ、西に筋違いに進みます。
(左手は松尾丸の石垣、右手が本丸の土塀)


本丸への枡形虎口一ノ門跡(礎石)

正面生垣になっている部分が本丸(現 飫肥小学校校庭)

飫肥小学校校庭(本丸跡)

本丸の北西に位置する「旧本丸」へ。

旧本丸は、更に一段高くなっておりました。

石垣構成の坂枡形虎口となり、

貞享元年(1684)に移転するまで御殿があった旧本丸に。


市指定文化財 史跡 飫肥城旧本丸跡 旧本丸枡形虎口一ノ門礎石
飫肥城は東西約七百五十メートル、南北約五百メートルの城域に大小十三の曲輪と犬馬場などからなる広大な城である。各曲輪はシラス台地を空堀で区切った壮大な規模で、南九州の中世城郭において特徴的な形態である。戦国時代には代々島津氏一族が城主であったが、天正十五年(一五八七)に飫肥藩初代伊東祐兵が豊臣秀吉から飫肥を領地として与えられて以後、明治時代まで伊東氏の居城となった。
城内の各曲輪は本丸、松尾、中ノ城、今城、西ノ丸、北ノ丸などの名称で呼ばれていた。このうち、元禄六年(一六九三)に現在の本丸(飫肥小学校グラウンド)が完成するまでは旧本丸が藩主の御殿であった。旧本丸は寛文二年(一六六二)、延宝八年(一六八〇)、貞享元年(一六八四)の三度の大きな地震で地割れが発生し、移転することになった。
-案内板より

現在は、樹齢100年を超す「飫肥杉」が林立しております。

旧本丸北側の門(本丸側から)

旧本丸北側の門
(中の丸、北の丸側。こちらも石垣構成の坂虎口となっている)

旧本丸北側の門からみた旧本丸
つづく
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