~西へ~(259) 35日目② 日向国総社 都萬神社Ⅱ | どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

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「野宿でもお腹に肉のつく身哉」

日本一周・全県に足跡を目標に、車中泊やキャンプをしながら、
大好きなラーメンを食べ、100名城を中心にした城めぐりや
神社仏閣に参拝し御朱印を頂く、旅の絵(写真)日記です。

    
                    近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら


都萬神社の境内には、境内社をはじめ、多くの見所があります。

     
       

    
大山祇神社 ご祭神:大山津見命   稲荷神社 ご祭神:宇迦之御魂命

    
  祇園神社              
この神社は八坂神社とも申しますが、地方の人たちには祇園様と呼んだ方が親しみやすく、すぐに妻の夏祭りが連想されるからです。
 祭神はスサノオの尊で、尊は実に勇壮活発な体力の持ち主であった反面、誠に仁侠、血も涙もある純潔な思想の出雲方の神様で日本神話の中に出る主役の一人でもある事はご存知と思います。
 その神様と何処にいつ頃から天孫日向に降臨されたニニギノ尊とまつわるサクヤ姫の神苑に奉斉ったか、それは昭和56年を去る94、5年前の頃妻町が本町・下妻・松馬場、合わせて80戸そこそこしか無い時、名主・本部伝兵衛外、町の革新的同士、河野伊三郎、児玉善衛、杉田城助、四代目河野藤太等の諸氏が、商売繁盛・町内発展の製作を兼ね信仰思想から、この池の中の島に社を建て祭りを行ったのが始めでありますが、間もなく町は町火消しの必要性から、互親連という組織が出来て、河野俊一が初代連長を努め、二代目、児玉任蔵、三代目、本部大次郎に次々に義勇消防の勇はだがうまれ、消防に従事すると共に、先輩の思想を受け入れ神社の祭典に参画、特に祇園祭の夏祭りには力を入れ、白木造りの神輿に御神体を奉戴して町民安かれと疫病退散を祈願し旺盛な若者の意気神に通せよと御信幸を行いましたが、互親連の四代目か五代目の頃、太鼓台が導入されるや御信幸は神職達に委ね御供の者として大きく延び上って来ました。(以下略)
-案内板より


  
 日本清酒発祥の地の由来
西暦七一〇年に編纂された「日本書紀」の中で、木花開耶姫の三皇子出産の部分に次のような件があります。
「神吾田鹿葦津姫[かみあたかあしつひめ](木花開耶姫)卜定田(うらへた)を以て號けて狭名田と曰ふ、其の田の稲を以て天甜酒(あまのたむざけ)を醸(か)みて嘗(にはなひ)す、又渟浪田(ぬなた)の稲を用て飯に為して嘗す」
つまり、当神社の御祭神木花開耶姫命が占いによって定められた田を開き、収穫された稲で稲と飯(御飯)を造られ、天照大神にお供えになり自らも召し上がられたということです。
お米を原料にして造った酒の最古の伝承で、現に神社近くに「酒元」という地名の集落もあります。
また、木花開耶姫が三皇子を出産された時、母乳代わりに甘酒でお育てになったという言い伝えもあります。
-案内板より


 
 妻のクス (左)
国指定天然記念物
「都萬神社の本殿南側にそびえる妻のクスは、昭和42年と平成2年1月の2回、樹幹の空洞部から出火し被災したり、過去に強風で樹幹を失ったものの、今では樹勢をとりもどし、精力的な神秘さをただよわせています。
推定樹齢1200年・根廻り16.4m、樹廻り10.8m、高さ40m(現20m)」
     西都市教育委員会 -案内板より


 千年楠の洞洞木(どうどうぼく) (右)
都萬神社境内内に立ち生える大楠の一部で作られた木洞で慎み・長まる・通るの意から洞洞木と命名
夢かなう 幸せ招く 願いかなう の通る木洞
通り方 入り口の前で一礼の後、願ひごとを心の中で申しつつ木洞を潜り抜け終わって一礼してください。
     都萬神社  -案内板より




      
    日向国二之宮(総社)
     都萬神社 御朱印








                              つづく







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