近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら
さぁ、メシです。昨日夕方に情報収集した店へ。

自家製麺・縁(都農ICの近く)
壁に色々なウンチクが書かれていたので期待して待つ。
スープを一口。あれ?醤油が前に出ているのは、香りから想像できたが、
出汁(動物)はどこに行った?隠れすぎてないか。しかし、麺は旨い。
細直でツルツル、喉ごし良く小麦の味がするが、この麺がなければ、日本
蕎麦を食べているのと錯覚しそうだ。中判のチャーシューは品書きに「いぶ
し」とあるが、「炙り」のようで、しかも硬く噛み切れない。メンマも筋が
あり、どうだかなぁ。偶々かもしれないが、老年の夫婦客が多かった。

しなそば醤油

腹八分目のまま、次なる地に到着です。


皇后宮御歌
やすらかに ねむれとそおもふ 君のため いのちささけし ますらをのとも
昭和天皇御製
身はいかに なるともいくさ とどめけり ただたふれゆく 民をおもひて
今上天皇御製
国がためあまた逝きしを悼みつつ 平らけき世を願ひあゆまむ
皇后陛下御歌
海陸の いづへを知らず 姿なきあまたのみ霊 国護るらむ


宮崎市神宮に鎮座します宮崎縣護國神社は、戊辰の役(慶応四年・明治
元年、新政府軍と旧幕府側との戦役)を始め、過幾多の国難に殉ぜられた、
宮崎県に所縁の英霊をお祀りしております。


鳥居の前では、車のお祓いが行われていました。

拝殿

ご由緒
全国各道府県の護国神社は、ほとんど明治維新の当時に招魂社として創建され、戦前より慰霊の祭儀が行われていました。
しかし宮崎県は、明治維新の当時、小藩分立の状態であったなどの事情もあり、県内全域の御霊を祀る招魂社は創立されていませんでした。そこで県としては、移設のできる小さな社殿を造り、毎年祭場を設営して県下全戦没者の招魂祭を執り行ってきました。
昭和16年12月、大東亜戦争の勃発により戦没者の数が非常に増加し、護国の英霊に対する県民の感謝と敬仰の念いよいよ深まり、県民の要望に応えるため、当時の知事をはじめ各界の代表者数十名が設立者となって宮崎県護国神社建設奉賛会を組織し、昭和18年4月23日内務大臣の許可を得て宮崎市下北方の高台に鎮座地を定め建設工事に着手しました。
しかしながら建設途上において昭和20年8月15日の終戦を迎え、日本が連合国の占領下におかれるとともに、当時の宮崎軍民政部長官マスマン少佐の厳命により建設を放棄するのを余儀なくされました。
その後、講和条約の発効をみるに至り、護国神社再建の要望が澎湃として起こり、昭和28年4月宮崎県護国神社再建奉賛会を組織して県民の浄財をつのり、神社の再建に着手、昭和30年3月竣工、同日鎮座祭を斎行し今日に至ります。 -宮崎縣護國神社公式Webより

拝殿ない


本殿
つづく
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