~西へ~(251) 34日目③ 日本海軍発祥之地 | どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

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「野宿でもお腹に肉のつく身哉」

日本一周・全県に足跡を目標に、車中泊やキャンプをしながら、
大好きなラーメンを食べ、100名城を中心にした城めぐりや
神社仏閣に参拝し御朱印を頂く、旅の絵(写真)日記です。

  
                    近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら


前々から来てみたかった「日本海軍発祥之地」にやってきました。



重要伝統的建造物群保存地区に指定されている「美々津」の町を
耳川の河口に向かって走ると、

     
   神武天皇御親率の東征水軍御進発の聖地
「日本海軍発祥之地」碑
建立・昭和17年(紀元二千六百二年)9月10日
復元・昭和44年(紀元二千六百二十九年)9月12日
 建立・復元の経緯と碑文の由来
日本海軍は、天皇が統帥された海軍でありました。このことから国が、神武天皇御親率の水軍が、はじめて編成され、進発した美々津の地を「日本海軍発祥之地」と定め、 紀元二千六百年記念事業の一環として建立されました。 碑文の文字は、時の内閣総理大臣海軍大将米内光政閣下の揮毫により、碑面に刻記されたものであります。 この碑は、大東亜戦争の終戦直後進駐米軍によって碑文が破壊されましたが、 昭和44年にいたり地元有志の強い要望により、防衛庁(海上自衛隊)などの協力を得て、 現在のとおり復元されたものであります。
    平成4年9月12日 「日本海軍発祥之地」碑顕彰保存会
-案内板より

       
   碑文
日本海軍発祥之地
 内閣総理大臣 海軍大将 米内光政 書


 記念碑碑文復元ノ記

      
  海軍両爪錨展示碑文          海軍両爪錨(刻印 昭17-8)
当地は、神武天皇が大水軍を編成され、御親率されて御東行の御船出をされた日本海軍発祥の地と伝えられている。   
 昭和十五年(1940)には、皇紀二六00年記念を祝い、日本海軍協会、大日本海洋少年団、大阪毎日新聞社主催により、軍船「 おきよ丸 」を造船し、この美々津港から大阪中ノ島まで神武天皇東行の聖蹟を巡航し橿原神宮に神楯を奉献した。 
この日を記念して企画された「日本海軍発祥の碑」の建立と「両爪錨」の製造が昭和十七年(1942)に実現したのである。 
 爾来、この錨は、太平洋戦争からの戦後の混乱期を経て昭和二十七年(1952)に創設された海上自衛隊に移管されていたものである。 
 そして、その錨が半世紀を経た今、海上自衛隊のご厚意により、誕生地である日本海軍発祥の地に帰還したことは日本海軍史の象徴といえるこの錨と神武天皇御船出の地の奇しき因縁を感じるのである。  
 私たちはここに、わが国の平和と安全を希求し、国民の財産と生命を守るため日夜、刻苦精励
されている海上自衛隊の一層のご発展を祈りながら、この錨を恒久の平和のシンボルとして世界中に発信していくことを誓うものである。
        平成十四年十一月吉日      -案内板より




神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)のちの神武天皇が、
「天孫降臨以来、179万2470余年が経ったが、未だに西辺にあり、全土を
王化していない。東に美しい土地があるという、天下を治めるにふさわしい
土地であろう。よって、この地を都とすべきだ」と宣言し、兄の五瀬命らと
船で東征に出た地が此処であるという。




                              つづく







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