近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら
高千穂の街を後にして、国道218号を東へ。

高千穂トンネルや青雲橋、雲海橋などの大きな橋をいくつかこえて、

延岡の街に入りました。

「天下一」の幟旗に導かれ、「日向 延岡城」に到着です。


北大手門(平成五年復興)

門をくぐって石段を上がると左に三の丸、右に二の丸、
正面には高石垣があります。

市指定史跡 延岡城跡 別名 県(縣)城(あがたじょう)亀井城
延岡城跡は、縣(延岡)藩主・高橋元種によって慶長6~8年(1601~1603)にかけて築かれました。元種は、松尾城(市内松山町)を拠点としていましたが、鉄砲の普及による戦法の変化に対応するため、五ヶ瀬川と大瀬川に囲まれた丘陵に県内最大の近世城郭を築きました。当時は縣城と呼ばれ、2つの河川を外堀とし、城内に内堀がつくられました。 城は、天守台、本丸、二ノ丸、三ノ丸からなる本城(現・城山公園)と、藩主の居宅である西ノ丸(内藤記念館・亀井神社)の2郭で構成され、門・櫓などが整備されました。中でも、二ノ丸にそびえる高さ22m・総延長約70mの石垣は「千人殺し」と呼ばれ、本城郭を代表する石垣となっています。
慶長18年(1613)年、元種は改易され、肥前国日之江(長崎県南島原市)の有馬直純が5万3千石で入封しました。康純の時、承応元年~明暦元年(1652~1655)には城の大修築が行われ、三階櫓、二階門櫓などが完成し、翌年これを記念して今山八幡宮に梵鐘(初代城山の鐘・延岡の地名が初見する最古資料・内藤記念館所蔵)が奉納されました。しかし、永純の時の天和2年(1682・天和3年説もあり)、火災のため三階櫓などは焼失し、以後三階櫓は再建されませんでした。
元禄4年(1691)、永純は無城地の越後国糸魚川(新潟県糸魚川市)に転封となり、さらに越前国丸岡(福井県坂井市)に移封されました。その後、日向国初の譜代大名として、三浦明敬が下野国壬生(栃木県壬生町)から2万3千石で入封し、この頃から藩名に延岡が多く使用されるようになりました。明敬は、正徳2年(1712)、三河国刈谷(愛知県刈谷市)に移封され、牧野成央が三河国吉田(愛知県豊橋市)から8万石で入封。延享4年(1747)には、陸奥国磐城平(福島県いわき市)から内藤政樹が7万石で入封し、明治4年(1871)年の廃藩置県まで8代続きました。
平成22年10月 延岡市教育委員会 -案内板より


千人殺し
ここの石垣は千人殺しと呼ばれ、敵が攻め入った時に石垣の一部をはずすと崩れ落ち、一度に千人を殺すと言い伝えられています。 -案内板より

千人殺しの石垣(本丸高石垣 高さ22m 総延長約70m)


二の丸跡

二の丸から左手に本丸石垣を見ながら石段を上がると丁字になり、

右手(西)には、細長い曲輪があり、往時には、最西に二階櫓が建っていた。

左手(東)は大きな本丸虎口となり、二階門櫓が建つ枡形虎口となる。

二階門櫓跡

本丸跡
奥の木が生えた盛り上がりが天守台跡(標高約54m)
本丸跡には幾つかの碑が建っておりました。


「明治三十七 八年戰役戰病死者招魂碑」 「殉國慰霊塔」

最後の城主「内藤政擧公銅像」
つづく
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