近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら
高千穂峡から国道に戻り、県道7号に入り、天岩戸神社を目指します。

天岩戸神社に到着すると、此処を起点に西諸県郡高原町の皇子原公園で
終点となる「ひむか神話街道」のモニュメントが建ってました。
宮崎県内各地に伝わる神話や伝説を紹介している「ひむか神話街道」。そのWebでは、「"神話と伝説のふるさと"といわれる宮崎は、古事記や日本書紀に記されている日向神話をはじめ、歴史ロマンをほうふつさせる数多くの伝説や史跡にあふれ、歴史資源の宝庫となっています。(中略)これらの物語は、時代を超えて私たちの心にそっと舞い降り、悠久の歴史とロマンをささやいています。この物語集を手にされた方が、宮崎の神話と伝説に触れ、そのロマンを少しでも感じていただければ幸いです。」と書かれています。中々面白く為になるので興味のある方はご覧くだされ。
→ひむか神話街道50の物語集


ひむか神話街道
アマテラスオオミカミ(天照大御神)
黄泉の国から戻ったイザナギノミコトは、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原で禊ぎ祓いを行い、左目を洗うと、アマテラスオオミカミが生まれた。
天照は、イザナギから告げられて、天上の神々の世界、高天原を治める太陽神となるが、その弟の荒ぶる神・スサノオノミコトの乱暴なふるまいにおびえ、天岩屋の戸を開いて、中に閉じこもってしまった。
このため、高天原は闇に閉ざされ、あらゆる禍が起こるようになってしまったという。
-案内板より

手力男命戸取像
天岩戸神楽30番戸取(手力男命が岩の戸を取り払い給う舞)の像
神楽歌
萬代の天の岩戸の神かぐら面白かれや末は目出たし -碑文より

天岩戸案内図


御由緒
古事記(こじき)、日本書紀(にほんしょき)等に皇祖天照皇大神(あまてらすすめおおみかみ)は御弟素盞鳴尊(すさのおのみこと)を御避け遊ばして暫く天岩戸(あまのいわと)へ御籠り遊ばされた事を記して居ますが、当神社は其の霊蹟天岩戸(あまのいわと)を斎ひ奉る神社です。
境内社殿の背後断崖の中腹に御窟あり天照皇大神(あまてらすすめおおみかみ)籠らせ給ひし処と伝へ、古より其の御神域を御神体としてお祭り致して居ります。
社殿は東本宮(ひがしほんぐう)と天岩戸(あまのいわと)直拝の西本宮(にしほんぐう)と岩戸川(いわとがわ)の渓谷を挟み相対して御鎮座ましますが東本宮(ひがしほんぐう)関係の昌泰(しょうたい)年間の記録に天照皇大神(あまてらすすめおおみかみ)、天岩戸(あまのいわと)より御出ましの節、思兼神(おもいかねのかみ)其の御手を取りて東本宮(ひがしほんぐう)の土地に御造営の御社殿へ御鎮りを願ったと記してあります。
弘仁壬辰三歳中秋には三田井(みたい)候の遠祖、大神大太惟基(おおかみたゆうこれもと)公霊夢に恐惶して頽廃せる社殿を再興し深く其神明を崇敬したと申します。
又神社に由縁の舞楽として岩戸神楽(いわとかぐら)三十三番の古雅なる手振を宮司社家代々伝へ氏子達習ひ伝へて祭典に奉奏する外、毎年十一月下旬より二月初旬にかけ、各集落において、民家に〆かざりして終夜舞続け黎明に及びて岩戸開(いわとびら)きと称するを舞納むる慣習があります。
住時名士の此の地を訪ふ者も多く寛政の奇士高山彦九郎(たかやまひこくろう)の参詣紀行あり薩摩の歌人八田知紀(はったとものり)礼参し、水戸の烈土井上主人義秀(いのうえもんどよしひで)等八名参籠して俳句「落つるには 手もなきものよ 蝸牛(かたつむり)」を残して居ます。
又大宝の昔京都神祇宮卜部朝臣(うらべあそん)参拝の記録あり相当古くより中央に認られて居た事が考えられます。
皇室の崇敬も厚く秩父宮殿下、秩父宮妃殿下、高松宮殿下、三笠宮殿下、朝香宮殿下、常陸宮(義宮)殿下を始め皇族、侍従の代参等、度々の御参拝がありました。
-天岩戸神社公式Webより


芭蕉句碑
「梅が香に のつと日乃出る 山路哉 はせを」


明治天皇御製
「天てらす神のみいつを仰ぐかな ひらけゆく世にあふにつけても」
「目に見えぬ神にむかいてはぢざるは 人の心のまことなりけり」

御祭神
天照皇大神(別の御神名 大日霎尊(おおひるめのみこと))
御旅所に合祀
手力男命
天鈿女命 外五柱
記紀に皇祖天照大神御弟素戔嗚尊をお避け遊ばされ暫く御籠もり遊ばされたとありますがその御神蹟「天岩戸」を斎い奉る西本宮は拝殿のみの社で古よりその御神域を御神体として祭祀いたしております


祓所

神門
つづく
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