近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら

東之丸 ひがしのまる
藩主の御殿と三階櫓を含む5棟の櫓がありました。御殿は居間、湯殿、御台所、御茶所、老女部屋等、数多くの部屋に分かれていました。
西之丸 にしのまる
本丸の西に位置し、櫓が4棟配されていました。『府内藩日記』から玄関・居間・書院・台所などのおおくの部屋から成る建物があったと思われます。
山里丸 やまさとのまる
寛永18年(1641)、城北の風光明媚な地に築山・泉水を設け、あずまやをもつ庭園を造り「山里」と名づけられます。松平氏の頃は能の興行や節句の御礼などが催されていました。
北之丸 きたのまる
城の西北に独立したように配置され、本丸を守るための砦として築かれたと考えられます。安政3年(1856)に藩校遊焉館が置かれ、教育の場へと移り変わります。
-案内板より
二之曲輪西丸から廊下橋を渡り、山里丸へ。


廊下橋
かつて西の丸と山里丸(現在の松栄神社)を結んでいた渡り廊下を、新・大分市発足30周年記念事業の一環として、1996(平成8)年に復元したものです。ベースとなったのは大手門の廊下橋で、内部まで忠実に再現されています。利用時間は8:00~18:00まで。
-大分市の歴史と文化Webより


廊下橋(ろうかばし)
松栄神社の場所は、かつて山里丸と呼ばれた郭のあった所です。山里丸は、茶の湯や能、月見などの諸芸能が営まれた特別な場所であり、府内城の風格を示す貴重な史跡です。
山里丸と西の丸を結ぶ堀の上に架けられた渡り廊下が、この廊下橋です。山里丸と同様、他にあまり例を見ない貴重な史跡であることから、平成8年に復元しました。
復元に先立って、平成7年に行った発掘調査の結果、「慶長期絵図」に示された石垣が確認され、その内容が正確に伝えられていることも分かりました。復元に際しては、「慶長期絵図」「松栄神社所蔵絵図」等を参考にしました。廊下橋の規模は長さ21.7m、幅員2.4m、橋脚高3.8m、建築部分の最高高さ4.6m、檜造り、壁はしっくい塗り、屋根は檜皮葺きとなっています。
-案内板より

天守台上から廊下門を見る


松栄神社
松栄神社は、1729年(享保14)年に6代府内藩主・松平近儔(まつだいらちかとも)によって近正八幡宮として現在と同じ場所に建てられ、1799(寛政11)年に松栄山(現在の大分県護国神社の社地)に遷宮し、近正大明神となり、4年後には、栖克(すみよし)大明神に三たび改称されました。
明治になり、松栄山の名にちなんで松栄神社とし、1885(明治18年)に堀川町(現在の都町、現・みずほ銀行)に遷宮したのち、1900(明治33)年に現在の場所に遷っています。
現在の社殿は1968(昭和43)年に再建されたものです。 -大分市の歴史と文化Webより

日本100名城スタンプ
大分府内城(94)
つづく
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