近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら
府内城は、北東隅に本丸を配し、東丸、西丸、山里曲輪が配され、侍町で
ある三の丸が北西から南東に大きく広がり本丸等を囲んでいる。
それぞれの曲輪は堀で仕切られ、渡櫓・廊下橋で連結されていた梯郭式平城です。

府内城は、1597(慶長2)年に府内入封した福原直高によって築城が始められた城で、江戸時代になり府内藩主となった竹中重利によって天守閣修理などがなされ完成しました。大分の武将といえば何と言っても大友氏ですが、大友氏は1593年に改易により府内を離れているので、府内城と大友氏は全く関係がないので注意が必要です(大友氏の居館は大友氏館)。
築城を始めた福原直高は元々12万石で入封したため、府内城は非常に壮大な造りとなっていました。その後直高が臼杵に転封されると、代官であった早川長敏が城主となり、江戸時代からは府内藩主となった竹中重利が入城し、城をほぼ完成させました。城主は以降、竹中重義、日根野吉明と代々藩主が務め、1658(明暦4)年以降は松平氏が10代で統治すると、城は明治維新まで存続しました。
しかしながら、1707(宝永4)年の大地震で一部建物が大破し、加えて1743(寛保3)年には多くの建物を焼失する大火災が起こり、このときに天守閣も失われるなど、城は甚大な被害を受けます。さらに明治維新以降は二の丸、三の丸が破却され本丸のみとなり、1945(昭和20)年には大分大空襲で残った建物も多くを焼失してしまいました。現在も天守閣は再建されていないものの、大手門や櫓、廊下橋などが復元されており、往時の雰囲気を味わうことができます。
なお、城内には1872(明治5)年から1962(昭和37)年まで大分県庁が置かれ、移転後は1966(昭和41)年に大分文化会館が建設されました(2013年閉館)。
-大分市の歴史と文化Webより

往時にはなかった西側から本丸に入りました。

内堀は埋め立てられており、二之曲輪西丸、本丸、二之曲輪東丸は1つに。


天守台に上がってみました。
天守台(てんしゅだい・天守閣跡)
府内城の中心となる建物として、1602(慶長7)年に竹中重利により4層式・高さ約16mの天守閣が築かれましたが、1743(寛保3)年の大火災により焼失。それ以降天守閣は再建されることなく、現在は天守台の石垣のみが往時の面影を留めています。
ちなみに天守台には登頂可能で、城内の様子が一望できます。
-大分市の歴史と文化Webより

天守台上から見た本丸南側(右奥に現存の「宗門櫓」)

天守閣
天守閣は約16mの高さを持つ4層式建物で、壁には優美さを添える華灯窓が付けられ、上棟には鯱鉾瓦が葺かれていました。今は、天守台のみが当時の面影を偲ばせます。 -案内板より


人柱 お宮
今からおよそ400年前、福原直高が、この地に荷揚城(現在の府内城)を築城する際、度重なる水害に工事が進まず人柱を立てることになりました。上野六坊に住む孝行娘のお宮が一家を救うために立ち、弁財天の木像を抱いて人柱となりました。その後、築城は順調に進み、お宮は弁財天とともに府内城の鎮守としてあがめられたと伝えられています。
手前の階段を下り、お堀にそって天守台の下にお宮を祀った祠があり、毎年3月18日に法要が行われています。-案内板より

人質櫓(ひとじちやぐら)
宗門櫓と共に残る江戸時代からの建物で、現在の櫓は1861(文久元)年に再建されたものです。その名の通り、実際に人質を収容していたと言われています。
-大分市の歴史と文化Webより

往時は内堀があった所から見た廊下門


冠木門(かぶきもん)跡
西の丸跡から廊下橋に至る通路の間には、かつて「冠木門(かぶきもん)」という、柱の上に横木を渡しただけの屋根のない門があり、両サイドにある石はその礎石です。
-大分市の歴史と文化Webより
つづく
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