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大分縣護國神社は、大分市中央部の小山、松栄山の中腹に社地を構える
内務大臣指定護国神社です。

神門

神門をくぐると、参道の左右に、


大はま矢(左)
高さ11.2m、重さ600kgの日本一の大破魔矢
叶い矢・大熊手(右)

ご祭神は、大分県縁故の英霊約4万4千柱を主祭神とし、
殉職警察官・自衛官を相殿にお祀りしております。

歴史
大分県初代県令森下景端は、慰霊顕彰のために明治八年十月十八日この松栄山に「招魂社」を創建しました。この明治八年に祀られたのは、明治七年佐賀の乱で戦死した杵築の大山昌など十四柱、同年台湾出兵で戦病死した竹田の井上某など三柱、過ぎし明治維新の動乱のさい蛤御門の戦いで戦死した南大分荏隈の若杉直綱など五柱の英霊です。
次に明治十年の西南の役とその前年の熊本神風連の乱で殉職した人たち二百九十七柱が祀られました。 それ以後も日清、日露の役、シベリヤ出兵による戦死者、欧州大戦、満州事変、日中戦争、大東亜戦争などで戦没された方すべてで四万四千余柱が祀られています。 創建当時のご社殿の位置は展望台の地点で、現在の社殿にご遷座するまではずっとここに位置しました。
明治十八年、拝殿などに増改築が加えられ、その後、昭和八年六月ご社殿の改築、参道の改修、神苑の拡張整備が行われました。 昭和十四年四月「大分縣護國神社」と改称し、その後終戦の時までは、代々の県知事が神社の奉賛会長をつとめ、県民の奉賛を得てまいりました。
昭和十八年十月二十八日、現在の社殿の大造営が完成してご遷座祭が行なわれ、二十二年、社号を「豊霊宮」と改称しましたが、二十七年九月、再び「大分縣護國神社」と元の社号にかえりました。
昭和四十一年十月二十二日、大分国体にご臨席された昭和天皇、皇太后がご親拝遊ばされ、また、五十二年九月十六日には、天皇、皇后両陛下が皇太子御時にご参拝になりました。
-大分縣護國神社公式Webより


本殿(千木)

神楽殿

大分県戦没者慰霊碑(昭和三十八年四月建立)
碑文
昭和天皇御製 昭和三十七年
年あまた へにけるけふも のこされし
うから思へば むねせまりくる


あゝ特攻 母の像
碑文
大分県特攻勇士顕彰碑
特攻、特別攻撃隊
特別という意味に日本人なら心を動かされずにはいられない
大東亜戦争の戦局に起死回生の一撃を加えんと数多の若人が必死の戦法に赴いた
空に 海に 陸に 往きて還らぬ旅路に就いた
大切な人々に ふるさとの野山に訣別し その多くは妻を娶ることもなく
千々に乱れる心をまとめ 従容として悠久の大義に生きる運命を受け入れたのだ
ただただ祖国の安泰のために
像は問う
いまを生きる日本人よ
俺たちのうるわしい国 日本は護られたのかと
大和民族の誇りは失われていないかと
目覚めよ 日本人
ますらをの かなしきいのちつみかさね つみかさねまもる やまとしまねを
つづく
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