近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら
多くの城に残る「人柱伝説」が、此処「大洲城」にもございます。
川に面した高石垣の工事が難航したため、人柱を立てる事となり、くじによって「おひじ」という若い女性が選ばれ、おひじはやむなく生き埋めにされ人柱となった。その後、工事は無事完了し、おひじの最期の願いにより、大洲城下に流れる川を肱川と名付け、大洲城を「比志城」とも呼んだという。

天守西側


天守北西側 本丸北側の石垣

少し戻り本丸へ上がります。



井戸丸と石垣の修復
大洲城の本丸は、上段と下段とに分かれ、井戸のある下段の曲輪を井戸丸と称しています。井戸丸の西側には本丸下段の門と、それに付随する多聞櫓が建っていました。さらに南側には独立した二層の櫓が一棟ありました。
この井戸は、本丸にある唯一の井戸で、直径約3.8mあり、国内でも最大級の本丸井戸として知られています。
天守台の石垣は、過去の地震で何度か修理した記録が残っています。工事着手の発掘調査では、石垣の内部にさらにもう一列石垣が検出されており、現存する天守台の複雑な築造家庭の一端が明らかになりました。
天守解体後に天守台上部の石が取り除かれており、天守の復元工事に合わせて石垣を部分的に修復し、元の高さまで積み直しています。 -案内板より

暗り門跡
この門は、天守に到る最後の城門でも最も大きい櫓門です。現在とは異なり、かつては門の正面に石垣が立ちはだかり、左に折れて石段を登ると台所櫓の前に出るようになっていました。通常の櫓門とは異なり、折れ曲がり部分の上に渡櫓が覆いかぶさり、文字通り内部は「暗り」になっていました。仮に門を破られても、突き進んできた敵兵の勢いをそぎ、暗りのなかで混乱しているところを、攻撃する仕掛けになっていたと思われます。発掘調査では、正面の石垣の一部と石段およびその側溝が確認されました。 -案内板より

東側から見た本丸
大洲城の沿革
大洲城は、鎌倉時代の末期、伊予国の守護宇都宮豊房の築いた地蔵ヶ岳城が始まりといわれています。激動の戦国時代を経て、小早川隆景が伊予を平定した後、戸田勝隆、藤堂高虎、脇坂安治が相次いで城主となりますが、このころ4層4階も天守を中心とした本格的な近世城郭に整備されたのではないかと考えられています。元和3年(1917年)米子から加藤貞泰が入城しました。以後、明治維新を迎えるまで加藤氏が6万石の城主としてこの地を治めました。明治維新後、幕藩体制が崩壊し、明治21年(1888年)には天守も取り壊されました。しかし、4棟の櫓は解体をまぬがれ、いずれも国の重要文化財に指定されています。城跡も県史跡に指定され、今日も大切に保存されています。
4層4階の天守は、明治期の古写真や「天守雛形」と呼ばれる江戸期の木組み模型など豊富な資料をもとに、平成16年(2004年)に木造で復元したものです。
-案内板より

天守(複合連結式層塔型)群
(左から、高欄櫓・多聞櫓・4層4階の天守・多聞櫓・台所櫓)


つづく
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