近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら
お腹も落ち着き、目的地・大洲城を目指します。

交通の要所である大洲に最初に城を構えたのは、元徳三年(1331)、守護
として国入りした伊予宇都宮氏の宇都宮豊房で、この地・地蔵ヶ岳に
因んで、地蔵ヶ岳城と呼ばれました。

宇都宮氏はその後、国人として二百数十年間にわたって南伊予を
中心に支配を行うが、永禄の末期に毛利氏の伊予出兵によって降伏。

天正十三年(1585年)には、豊臣秀吉の意を受けた小早川隆景によって
落城、その小早川隆景が三十五万石で伊予に入封。湯築城を本城とし、
大洲城は支城となります。

文禄四年(1595)、藤堂高虎が入城すると近世の城郭として整備され、
慶長十四年(1609)には淡路の洲本から脇坂安治が入城し、この2人の
時代に天守をはじめとする建造物が造営されました。

肱川の対岸から、天守と多聞櫓で連結された台所櫓を堪能し、登城します。

大洲城の縄張り
大洲城は、肱川ひじかわのほとりの小高い丘(地蔵ヶ岳)を中心に造られています。
丘の北東斜面は急峻きゅうしゅんで直下を肱川が流れており、天然の要害を成しています。
丘の上を本丸とし、中腹から麓ふもとにかけて本丸を半ば囲うように城主の御殿のある二の丸があります。
二の丸の南と西側には重臣たちの屋敷が並んだ三の丸があります。
三の丸の東端には大手門を、南端には搦手からめて門を設け、これらが主な出入り口となっています。
それ以外は、二重の堀と山で縄張りを構成しています。
城下町は、城の東に造られました。
その南にも堀で囲われた武家屋敷があり、山の谷筋にいくつもの寺が並び、いざという時の防御拠点となるように考慮されています。
-「復元 大洲城」冊子より

下台所


下台所
県指定有形文化財(建造物) 指定年月日:昭和43年3月8日
大洲城に残る当時の建物は、重要文化財の4つの櫓と、この下台所のみです。城内の食料庫としての機能を果たしていたと言われています。建物の内部は一部2階建て、切妻造、本瓦葺、桁行19.82m、梁間7.90mの大きさで、外部は軒裏をふくめ漆喰塗込めの建物です。
-案内板より

城址前の民家

幾重にも連なる見事な石垣

表御殿跡

美しい野面積みの石垣

高石垣の上の天守(復元)と高欄櫓(現存)


二ノ丸西側上部に建つ「御門番長屋」
この建物は、曲輪内の仕切り塀に附属する長屋です。その名前の通り門番が詰めていた建物です。外観は絵図をものに再建しました。 -案内板より

北の菱御門(二の丸搦手門)櫓跡
この門は、二の丸の表門にあたる櫓門です。ここからは帯曲輪を通じて、表御殿や城山の北側を巡る曲輪へ至ることが可能で、大洲城の防衛上重要な門の一つです。
-案内板より

玉櫓跡(奥に見えるのは)
二の丸西隅にあるこの櫓は、付櫓をともなう二層の櫓です。この付近は肱川越しの攻撃に備え、特に堅固な防備が敷かれていました。 -案内板より

鉄砲櫓跡
二の丸北東隅にあるこの櫓は、付櫓をともなう二層の櫓です。肱川越しの攻撃に備えた櫓で、櫓の名称から鉄砲などの武器を納めていたと思われます。 -案内板より
つづく
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