近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら
約350年前の天守が現存する宇和島城を下城し、一旦、国道に出てすぐの


南豫護國神社に参拝です。


顔から胴体が一直線な石段上の狛犬
(大正3年(1914)4月15日建立)

二の鳥居の先でまた石段です。

ご祭神は、
伊達秀宗公(だてひでむねこう)宇和島藩初代藩主
配祀
伊達村候公(だてむらときこう)宇和島藩五代藩主
伊達宗紀公(だてむねただこう)宇和島藩七代藩主
伊達宗城公(だてむねなりこう)宇和島藩八代藩主
合祀
護国の英霊七千余柱 で、ございます。

拝殿

創始は、大正二年。
宇和島藩主四柱をお祀りし「鶴島神社」と称した。
昭和二十年、戦火により社殿以下主要な建物を焼失。
復興に際して、英霊七千余柱を合祀し、昭和三十年に
「南豫護国神社」と改称した。

生目神社

ニューギニア方面 戦没者慰霊碑
碑文
1941年(昭和十六年)12月に勃発した第二次世界大戦に於て、当初は各地とも赫々たる戦果をあげ、故国から数千粁も離れた南海の諸島までも占領しました。
しかし、1942年(昭和十七年)6月ミッドウェー海戦の敗戦を契機に米軍の反攻はガダルカナル島の奪回作戦にはじまり、わが軍はラバウルを中核基地として航空戦の総力をあげて死闘を繰り返しましたが、補給が続かず七千数百機を失い制空、制海権は完全に米豪軍の手にわたりました。
特に文明文化から取り残され世界の唯一の秘境と言われたニューギニア戦は、南海支隊のポートモレスビー攻略作戦の挫折にはじまった玉砕、撤退、その後ダンピール海峡で全輸送船の沈没により補給はたたれ見放された戦場となり「食べるに糧食なく、病魔に医品なく、射つに弾丸なく」生命を維持し得ず戦う前に斃れてしまう者もありて、すべて悲惨、凄惨、無念としか言いようのない慟哭の戦場と化した。
この戦場に参加して武運つたなく名誉の戦死をされた方は、愛媛県に二千四百余名、当南予地方だけでも769名、更にニューギニア方面となると約千名を数えます。
生還者僅か7パーセントで祖国の栄光と安泰を信じ散華された英霊の遺骨の未収集は、東部ニューギニアのみで約八万柱といわれ今なお異境の地で眠り続けているのです。
国としては平成5年度を目安に遺骨の収集に全力をあげています。
ニューギニアに出る月も故郷南予に出る月も一つで、その月を眺めて只管に望郷の想いにかられながらも、かく悲惨なる戦を強いられ南海の涯に白骨となって眠り続けて再び還ることの出来なかった英霊の心情を思う時、故郷南予の地で安らかに眠る場造りと碑の建設は多年の悲願であり、残された我々の務めである。
時恰もニューギニアで戦死された当初の方は五十年忌にあたり、その機会をとらえて、宇和島市南予護国神社のこの一隅を借り受け、「南予出身者ニューギニア方面戦没者慰霊碑」の建設がここに完成し、祖国の為めに散りし戦没者を暖かく迎え入れて、ご冥福をお祈りすると共に之を後世に伝えて二度と再びこのような戦争を繰り返すことのないよう人類の恒久平和を祈願する。
平成五年(1993)六月吉日
南予出身ニューギニア方面戦没者慰霊碑 建立委員会

南豫護国神社 御朱印
全ての兵者に敬意を表しますと共に、英霊の御霊に感謝の誠を捧げます。
つづく
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