~西へ~(194)29日目① 日本100名城 宇和島城Ⅰ | どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

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「野宿でもお腹に肉のつく身哉」

日本一周・全県に足跡を目標に、車中泊やキャンプをしながら、
大好きなラーメンを食べ、100名城を中心にした城めぐりや
神社仏閣に参拝し御朱印を頂く、旅の絵(写真)日記です。

 
                    近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら


昨晩寝付く前は、多くの車が停まっていたが、起きると数台のキャンカーと
車中泊らしき車が広い駐車場にポツリポツリ。


29日目、四国も残りわずか。元気にいきます。


現存天守の宇和島城登城から開始です。

 

 ようこそ 宇和島城へ
宇和島城は慶長元~6年(一五九六~一六〇一)、築城の名手と呼ばれた藤堂高虎いよって戦国時代の山城から近世の海城へと生まれ変わりました。当時は大半が海に面する地形を巧みに活かした縄張りでした。石垣や天守、櫓は、元和元年(一六一五)に入部した伊達家により修築されますが、基本的な城構えは高虎時代のものを踏襲しています。堀は全て埋められ、三之丸をはじめ総郭部分約28万m2は失われていますが、本丸・二之丸等の郭を含む約10万m2の城山は、国史跡(昭和12年)に、現存12天守の1つとなる天守は国重要文化財(昭和9年)、そして南側登城口城門の上り立ち門は市指定文化財(昭和38年)に指定されています。また、城山には約四三〇種の草木が生い茂り、苔むした石垣群と織り成す幽玄の美の世界は一間の価値があります。
-案内板より


 市指定有形文化財
  桑折氏武家長屋門
家老桑折氏の武家長屋門。昭和27年、戦後の復興事業に伴う道路拡張に伴って撤去せざるを得なくなり、桑折氏の好意により現在の位置に移転。建築年代は不明で、元禄16(一六〇三)年以降の屋敷替えとなった際に改造されたものと推測しています。元々、桁行は35mでしたが、移転時に門番等の居住空間であった左室を撤去、約半分の15mとなっています。窓の増設や馬屋だった右室も居住部屋に改築されいますが、宇和島城下で唯一現存している武家長屋門として貴重な建造物で、昭和38年に市指定文化財となりました。 
-案内板より


 

移築された武家長屋門をくぐると、大手道は左へ。

      
    現在の三之丸

 
 史跡 宇和島城跡
三之丸跡
●面積・・・約1300m2
●標高・・・約3m
●現存石垣・・・長さ約50 高さ約4m
●建築物・・・御殿・桜門・番所・腰掛・枡矢倉・月見矢倉・潮見矢倉・土塀
内堀をめぐらし、周囲を石垣と土塁で囲んだ堅固な郭です。慶長6(1601)年から延宝4(1676)年まで、御殿が置かれた藩の中枢の場所でした。
御殿移築後は側室の休息所などに使われますが、文久3(1863)年には御殿を取壊し調練所となります。明治以後は市街化が進み、当時の面影をのこすものは、目の前の石垣のみとなっています。
-案内板より


  
大手道は、つづら折りの上り坂です。

   
3m程の道幅ですが、石段の一段は高く、丁度良い高さの石段部は
人ひとりの幅しかない。藩士が登城するには良いが、大勢で攻める
際は乱れが起きるでしょう。よく考えられてます。



正面に虎口が見えてきました。
往時は、来る者を拒むが如く櫓が建っていたのでしょう。


 野面積みの石垣。いい感じです。

     
 上(井戸丸)から見た(井戸丸門)虎口。筋違いになっており、
往時は、門をくぐると右手に番屋があったたようだ。

 
 宇和島城の井戸
この井戸は、現在城山に残る三つの井戸のうち、最も重要視せられたものである。ここを井戸丸といい、井戸丸御門、井戸丸矢倉などがあって、有事の時のため、厳重に管理せられていたと推量せられる。井戸の直径二.四メートル、周囲八.五メートル、深さ十一メートルである。ここは城山の北側の谷の中腹、三の丸からの登り道に当たり、数少ない城山の遺構の一つである。
  宇和島市教育委員会   -案内板より







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                              つづく







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