~西へ~(169)22日目⑥ 日本100名城 高知城Ⅲ | どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

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「野宿でもお腹に肉のつく身哉」

日本一周・全県に足跡を目標に、車中泊やキャンプをしながら、
大好きなラーメンを食べ、100名城を中心にした城めぐりや
神社仏閣に参拝し御朱印を頂く、旅の絵(写真)日記です。

 
                    近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら





土佐藩初代藩主 山内一豊が、あの「近江穴太衆」を配下に持つ旧織田秀信
家老 百々綱家を召し抱え築城させた高知城。真に素晴らしい石垣です。

そんな石垣に感動しながら天守を目指しております。


 この石段を上がると二の丸


 二の丸
本丸の北、三の丸の西上方に位置するこの二の丸は、三の丸より約8m高く、標高約40メートル、外輪の長さ270メートル、総面積4,128平方メートルの台地である。ここに建てられていた二の丸御殿は、政務をとる表御殿と藩主が日常の生活をする奥御殿が連続して建てられており、一部二階建てになっていた。総面積は1,233平方メートルもあった。明治6年(1873)公園化にともなってすべての建物が撤去されたが、現在残る築山は、奥御殿の上段の間に藩主が着座したとき、正面に見える位置にあたっている。二の丸にはこのほか目付役所やスキヤ櫓、家具櫓、長局などの建物があった。特に西北隅にあった二の丸乾櫓は、城内にあった8棟の櫓の内では唯一三階建てで、二階と三階の屋根には飾りの千鳥破風を配し、さながら小天守のようであった。北側の一段下がったところに水の手門があり、錦蔵・錦蔵門を経て城八幡方面や北門の方に通じていた。 -案内板より


 二の丸から見た天守


 
廊下門(櫓門)、多聞櫓がのる本丸の高石垣も見事です。



詰門(橋廊下)の2階、橋廊下(廊下櫓)を通りぬけ、本丸を目指します。


 詰門の2階部・橋廊下から大手道を見る


 廊下門(本丸)側から見た詰門の2階内部
(二の丸より本丸の方が高くなっている)

      廊下門から見た天守

更に短い石段を上がり、本丸に到着。


 高知城天守
天守は本丸の北東に、三層六階、白亜総漆喰塗込めでそびえたつ。最上階に望楼の廻縁があり、望楼式天守と呼ばれる古式な型だ。解説書等は四層六重と記す。これは一階と二階境目の腰庇屋根を数えるためである。しかし腰庇屋根は南と西側半分には廻らず、一・二階、三・四階、五・六階と各二階ずつが同一平面で重なり、また各二階ごとに支柱が構成されているので、三層六階とするのが正しい。一豊時代の天守は享保十二年(1727)に焼失。現存天守は延享四年(1747)八月、当初の礎石と土台位置で、慶長当時のまま再建した。江戸中頃に創建当初の姿を再現した、大変珍しい建築である。麓から大棟までは六十三メートル。中層に大入母屋、その上の唐破風と黒漆の望楼、扉が天守全体の印象を引き締め、優雅な姿を見せている。また一階の石段と接する二面には忍び返しがあり、城郭らしい装飾で仕上がっている。 -名城を歩くから引用


 本丸
本丸には天守・本丸御殿・納戸蔵・廊下門・東多聞・西多聞・黒鉄門などの建造物が残り、いずれも国の重要文化財に指定されている。東多聞は武器庫として使用したといわれ、西多聞には本丸警護の武士が詰める番所が置かれていたという。黒鉄門は本丸の南に位置し、儀式の際に藩主が出入りする門であった。 -案内板より



高知城絵図








                              つづく







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