~西へ~(168)22日目⑤ 日本100名城 高知城Ⅱ | どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

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「野宿でもお腹に肉のつく身哉」

日本一周・全県に足跡を目標に、車中泊やキャンプをしながら、
大好きなラーメンを食べ、100名城を中心にした城めぐりや
神社仏閣に参拝し御朱印を頂く、旅の絵(写真)日記です。

 
                    近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら


高知城 杉ノ段に上がってきました。

 
 杉の段
かつて杉の巨木が沢山あったのでこの名がある。北の部分には塗師部屋があり、また長崎から求めてきた舶来品を入れる長崎蔵があった。二の丸へ上る道の南側に残る井戸は、深さ約18メートルあり、記録にある城内14の井戸のうちで最も水質が良かったので、毎日午前10時・正午・午後4時の3回この井戸水を汲み、藩主の住む二の丸御殿に運んだという。この段を北に回った部分には重要書類などを保管する証文蔵が離れて建てられており、南には鐘撞堂などのある太鼓丸があった。城内の林にはタヌキ・うさぎ・いのしし・あらいぐまなどの動物がいたと記録されている。杉の段には国学者で「万葉集古義」を著わした鹿持雅澄(1791~1858)の愛妻の碑、高知県の水力発電に功績のあった清水源井(1860~1924)記念碑、明治初期の医師であった星野秀太郎(1859~88)・楠正興(1829~87)・岡村景楼(1835~1890)の記念碑、浜田波静(1870~1923)の句碑、山内一豊の妻の銅像などがある。 -案内板より


 杉ノ段から三ノ丸の高石垣を見る(見事!)

  
 三の丸石垣         (クリックで拡大)
三の丸は、慶長6年の築城開始から10年を要して最後に完成した。面積は4,641㎡、出隅部分の石垣の高さは約13m。石垣に使用されている石柱は主にチャートげあるが、砂岩、石灰岩も一部使用されており、穴太衆(あのうしゅう)が、安土城の石垣で始めたとされる自然石の形を活かした野面積みで多くの面が構築されている。また、三の丸には、1,815㎡の壮大な御殿が建築されていた。三の丸の入口にあたる鉄門付近の石垣は、鉄門の改築に伴い積み直されたものと見られ、砂岩で構成された打ち込みハギで築かれている。今回の解体修理に伴う発掘調査でチャートの根石(基礎石)が確認され、改めてその事実が確認された。三の丸の石垣は、慶安3年(1650)、宝永4年(1707)に地震や豪雨により、崩壊し、修理した記録が見られる。今回の修理は、平成11年に実施した調査により、割れたり、孕んだ石が多く、崩落の危険性が確認されたことから、平成12年度から事前の発掘調査や測量などを実施した後、鉄門付近から東面の花壇前まで実施した。工事は、改修前の石垣の状態を把握した後、割れた石以外は元の石を使用し、元の場所に戻すことなど現状復旧を基本として実施した。改修工事は、穴太衆の野面積みの技法を現代に伝える石工が携わって平成16年度から平成21年度にかけて実施、総工費4億円を要した。 -案内板より


 何層にも連なる石垣の上に建つ天守


 鉄門跡
門扉に多数の鉄板を打ち付けてあったことから、こう呼ばれたという。三ノ丸入り口付近の防衛上非常に重要な位置にある。門を囲む石垣は「打込みハギ」と呼ばれる手法により堅固な石垣が築かれている。門内は小枡形になっており、石垣の上から攻撃できるようになっている。 -高知城公式Webより

        二階に上がる為の石段
  鉄門跡
この場所には左右の高い石垣をまたいで入母屋造り二階建ての門が設けられていた。門の扉には鉄板が打ち付けられていたので鉄門と称された。小さな枡形を形作っている門の内側には番所があった。右と正面の石垣上(三の丸)には矢狭間塀がめぐらされていた。左に曲がって石段を上ると、塀のために右手の二の丸方向への道は見えず、正面の詰門方向に導かれるように巧妙に設計されていた。石段は十八段あって「一八雁木」と呼ばれていたが、現在は十六段になっている。石段の中間から鉄門の二階に上がれるようになっている。 -案内板より


 三の丸側から見た鉄門跡


 三の丸

 三の丸  
高知城で一番広い平面で、外周504メートル、南北85メートル、東西54メートル、総面積は4,641平方メートルある。往事は、曲折の多い石段の上には沢山の銃眼を設けた矢狭間塀がめぐらされ、東北角には丑寅櫓があった。また、大書院と呼ばれる広大な建物が建設され、総面積は1,815平方メートルもあった。この建物は、主として年頭の礼式や五月節句その他の儀式などで大勢の藩士が参集するとき使われたという。この大書院は明治維新ののち高知藩の執政府となり、次いで藩知事府から藩庁と改称された。明治3年(1870)藩庁は城西の致道館跡に移転した。明治6年、公園化に伴いすべての建物が取り壊された。現在は、入口に当たる部分に門柱の立てられていた礎石だけが残されている。公園整備により多数の桜の木が植樹され、高知の桜の開花を告げる「ソメイヨシノ」の標本木があり、花見の場所として多くの市民に親しまれている。 -案内板より


 三の丸から見た天守


 三の丸から二の丸へ上がる石段(正面に詰門)


この石段を上がると、道は3方向に分かれ、
左手に犬走りを通り、搦め手に向かう小道。
右手に(死角に入り見え難いが)二の丸へ通じる道。そして、
正面に本丸と二の丸の間に設けられた空濠を跨ぐ「詰門(橋廊下)」


 詰門(橋廊下)

 詰門  
詰門は本丸と二の丸の間に設けられた空濠をまたぐかたちで建てられており、橋廊下という旧名がある。階上が登城した武士の詰所となっていたため、現在は詰門と称している。東の出入り口は右寄りに設け、西の出入り口は中央につけられていて、筋違いになっている。これは攻め上がってきた敵が容易に通り抜けられないようにという防衛上の配慮によるものである。また、東からこの門を突破しても容易に本丸には行けないようになっている。一階部分の南寄りは籠城のための塩を貯蔵するようになっていた。中二階部分は窓もなく物置であったと考えられる。二階は二の丸から本丸への通路でもあり、内部の3室を畳敷きとし、家老・中老・平侍と身分に応じて詰める場所が定められていた。板の間の東南隅には非常の場合の階下への抜道が設けられている。また、東面に3ヶ所、西面に5ヶ所の隠し銃眼も設けられている。 -案内板より


二の丸から見た「詰門(橋廊下)」





独立式望楼型4重6階の天守


                              つづく







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