近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら
高知平野のほぼ中心に位置する大高坂山(標高44.4m)上に築かれた、
梯郭式平山城「高知城」(別名 鷹城)に到着しました。


山内 一豊の銅像
土佐藩初代藩主山内一豊は、天文14年(1545)生まれ。13歳の時尾張国(現愛知県)岩倉城主織田伊勢守信安に仕えていた父が戦死し、母や幼い兄弟とともに流浪した。天正元年(1576)豊臣秀吉に従って織田信長の朝倉・浅井攻めに出陣して武功を上げた。以後も秀吉の麾下(きか)として各地の戦いに参加し、次第に頭角をあらわして近江国(現滋賀県)長浜2万国の城主から、天正18年(1590)小田原攻めののち遠州(現静岡県)掛川5万国を領した。
慶長5年(1600)の関ケ原の戦いの功績により、土佐一国24万国を与えられて翌6年入国、高知城の築城と並行して城下町を整備し、現在の高知市の基礎を形作った。織田信長・豊臣秀吉・徳川家康と三代の天下取りの間を生き抜いて出世したただ一人の武将といえる。慶長10年(1605)9月20日没。61歳。
この銅像は大正2年(1913)に建設された銅像の原形をもとに平成8年(1996)に再建除幕された。 -案内板より

大手の追手門より登城します。

追手門(現存)桁行11間、梁間4間 両脇戸付櫓門


追手門
慶長年間創建、寛文4年(1664)に再建されたもので、当城では珍しく大きな石を積んだ石垣で枡形を構成し、内部が見通せないように右側に建てられた城の正門である。
重層で入母屋造り、その木割りは太く堂々とし、欅を用いた主柱や扉、冠木などには要所に銅製の飾り金具を取り付けている。その規模が大きく、城門として豪壮優美な趣を備えている。 -案内板より

石垣の刻印(追手門横)


追手門東北矢狭間塀(残念ながら工事中でした)
この追手門東北矢狭間塀は、江戸中期(1747年~1749年)に創建され、延長27.6m、銃眼五箇所、本瓦葺で重要文化財に指定されています。 -案内板より


高知城の沿革
高知城は、もと大高坂城といい、南北朝時代に大高坂松王丸が南朝に応じ、これに拠って北朝方と戦ったと伝えられる。戦国時代、長宗部元親は土佐一国を平定、さらに兵を進めて四国を併呑し、天正16年(1588年)ここに築城した。しかし城下に水難が多いため、数年を経ず浦戸に移った。山内一豊は、関ヶ原の戦功により、遠州掛川(6万石)から土佐(24万石)に封ぜられ、慶長6年(1601年)9月百々越前守を築城奉行に任じて工を起し、2年後、本丸を完成した。享保12年(1727年)越前町より出火し、全域大半類焼。同14年再建に着手。慶長創建の姿にならって施工し、24年を経て宝暦3年(1753年)11月竣工して現在に至っている。明治維新後、二の丸、三の丸の建造物を破壊し、本丸と追手門のみを残して、城域を整理し、花木を植え、公園とした。昭和9年1月、天守閣及び追手門の建物が国宝(現在の重要文化財)に、昭和34年に城域一帯が史跡に指定された。また明治6年、県立都市公園となった。戦後は各建造物の修理に着手。追手門は昭和26年に、天守閣は同30年に、その他の諸建造物は34年3月に、それぞれ改修竣工した。
-案内板より


稲垣退助像
近代日本の道を開いた自由民権運動の最高指導者として有名。天保8年(1837)4月17日、高知城下中島町の上士の家に生まれ、旧姓は乾、無形と号した。討幕運動に参加、
戊辰戦役の折に先祖の板垣姓を名乗り、武勲を立てた。
維新後、新政府の参議に列したがやがて下野、明治7年(1874)1月、民選議院設立建白書を左院に提出したのち帰高。同年4月、高知に立志社を創立して自由民権論を唱えた。
明治14年(1881)10月、自由党総理に推され、翌春、東海道を遊説の途上、4月6日岐阜中教院で暴漢に刺された。血潮に染まりながら板垣の叫んだことばは、いつしか「板垣死すとも自由は死せず」の名文句となり、怒濤の如く全国に伝承され自由を求めて闘う人々を大いに勇気づけた。
明治20年(1887)5月、伯爵を授けられたが一代華族論を唱え、一代限りで拝辞した。以後、内務大臣に任ぜられること2回、晩年は政界を隠返し、社会改良運動に専念した。
相撲や居合道などの発展のためにも尽力したが、大正8年(1919)7月16日、83才で死去した。
遺著に「一代華族論」・「武士道」・「神と人道」・「獨論7年」・「立国の大本」等がある。 -案内板より

広いが歩幅が合わず上りにくい大手道石段

石段を右に折れ、上がった先が「杉ノ段」

杉ノ段
「井戸ノ段」とも呼ばれた。将軍家から下賜された「御鷹之鶴」を迎える際には藩主自らこの井戸段に出向いたという。また、藩主のお国入りや出駕の際には、ここに一族が出迎えや見送りに出向いてきた。また、「長崎蔵」や「塗師部屋」などの建物があった。 -高知城公式Webより


石樋(いしどい)
高知県は全国でも有数の多雨地帯のため、高知城も特に排水には注意が払われている。
石樋は排水が直接石垣に当たらないように石垣の上部から突き出して造られており、その下には水受けの敷石をして地面を保護している。
このような設備は雨の多い土佐ならではの独特の設備で、他の城郭では見ることのできない珍しいものである。
石樋は本丸や三ノ丸などを含め現在16カ所確認されているが、下になるほど排水量が多くなるため、この石樋が一番大きく造られている。 -案内板より

振り返って、杉ノ段から大手道石段を見る
つづく
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