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備後国一宮 素盞嗚神社本殿の横には、

戸手天満宮(素盞嗚神社本地堂)福山市重要文化財


本地堂
現在の天満宮は、もともと戸手祇園社(早苗山天龍寺天王寺)の本地堂として建立されており、現在の社殿は延享3年(1746)に福山藩寺社奉行に対して本地堂の再建を申し出て延享5年(1748)に再建されたものです。
その後、明治の神仏分離令により取壊されるところを、天満宮に変更して現在まで伝えてきました。
再建時からの改修の痕跡は明治初期になされた若干の改変のみで当時の様子がほぼ完全に保存されています。
平成10年(1998)に、建物老朽化のために屋根の全面葺き替えと、若干の修復を行い再建時の姿に復元されました。
現存する本地堂は、全国的にも20例しかなく広島県内でも2例のみ確認されています。
特に、全国の祇園社で本地堂が現存するのは当社のみで、本来の祇園信仰の祭祀形態をとどめています。
平成十八年十月 建立 -案内石碑より

戦国時代に当社の南西にそびえる城山(じょうやま/標高199m)一帯に築かれていた山城相方城から、城門2棟と櫓が移築されたとされる。そのうち櫓は1970年代の火災で焼失したが、城門は境内の北側を通る奈良時代の旧山陽道に面して現存する。現存する戦国期の山城の城門としては最古級とされる。

相方城移築の城門(中門)


ちょっと珍しい中門の狛犬(備後鞆町 石工 右下政治郎 昭和二年(1927)建立)

相方城移築の城門 (北門)

備後国一宮 素盞嗚神社
御朱印
素盞嗚神社
『北海に坐します武塔神…南海に出でまししに日暮れぬ。その所に将来二人ありき、兄の蘇民将来、甚く貧しく弟の巨旦将来、富みて屋倉一百ありき…(備後風土記逸文)より』
この附近一帯を疫の隈という。
蘇民将来「茅の輪」伝承発祥の地として、文献上最古の記録を残すほか「疫の隈国社」として延喜式神明帳にみえる古い歴史をもっている。
武塔天神は祇園牛頭天王とも称されるほか建速須佐之男(古事記)(日本書紀では素盞嗚尊)と記された出雲神話の祖である。
明治初期までの神仏習合の一時期「早苗山天龍院天王寺祇園社」と呼ばれた事もあり、早苗の松の伝承を残した。
本社は備後三祇園の一社で七月の祇園祭りは備後地方の夏祭りとして有名であり祭り終了日の深夜、吉備津神社よりの「無言神事」が今も行われている。
建造物のうち道路側の楼門は相方城(天正年間・一五八〇年ごろ)の城門を移築しており当時の建築様式を知るに貴重である。
『茅の輪くぐり』(旧暦六月三十日、直径約二メートルの茅の輪をつくり無病息災・厄除けを願って茅の輪をくぐる行事をいう)
<本殿>…入母屋造・千鳥破風・桧皮葺
<拝殿>…入母屋造・向拝付唐破風
<西城門>…二重楼門
<鳥居>…明神鳥居
(境内に県天然記念物指定の大スギがあったが先年枯死する)
-新市町観光教会Webより
つづく
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