近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら
美作國一宮から美作國の総社である「美作総社宮」にやってきました。


古いと思われるものや新しい社号標が建つ社頭。
鳥居の社号額には「總社大明神」と書かれています。

途中に生活道路が横切る参道。先には石段と社殿が見えます。


石段を上がってビックリ。とても立派な社殿が目の前に。

参道を歩いている時から薄々気が付いていたが、近くで見ると圧巻です。

今まで参拝した総社の中では、一番大きいかもしれません。

本殿(重要文化財)中山造り
桁行三間・梁間三間・一重入母屋造・妻入、向拝一間・向唐破風造、杮葺き
永禄五年(1562)毛利元就が戦勝の記念として再建し、明暦三年(1657)には、
津山藩主 森長継により大改修が行われた。

手前から御崎神社・若宮八幡神社・荒神社・御崎神社

美作総社宮の由緒
美作総社宮は、社記に欽明天皇二十五年(およそ1400年前)大巳貴命(大国主命)を字本館(西方約1キロ)にお祀りしたのがはじまりと伝えられ、和銅六年(西暦713年)備前の国から六群を割いて初めて美作国が置かれ、その翌年、国府がこの里に開庁されました。その後、美作国司が今の社地、亀甲山に社殿を移して大巳貴命を主祭神として、一宮中山神社、二宮高野神社の両大社をはじめ、美作六十五郷の全ての社神祇を合祀して総社宮と名付け、そののちおよそ500年間歴代の国司はみなこの御神意を奉じ国内の政治を執り行いました。
その後、鎌倉時代になって国府が廃れた後も、この社は美作三大社の一つとして広く士民より崇祀され、近世をはじめ、美作国主、森氏は多くの神領を寄進し、後の松平氏も祭祀料を奉納し、明治維新後は検車に列せられました。
現在の本殿は、永禄五年(西暦1562年)に毛利元就が造営したもので、明暦三年(西暦1657年)に国主森長継が大修理を加え、昭和七年、国と氏子崇敬者の協力により解体修理が行われました。
この社殿の造りは、入母屋妻入りで向拝に千鳥破風を配した独特な様式をもち、規模も豪壮で華麗な彫刻を豊富に配置した桃山時代の優れた建造物で、全国の総社の内で当社のみが大正三年に国宝に指定され、現在は国の重要文化財に指定されています。 -案内板より

神饌所(拝殿右の建物)
神祇に供える飲食物(水・酒・穀類・魚・野菜・果実など)御食(みけ)、供物を置くところ。
社務所は無人で、御朱印は頂けませんでしたが、
大きな社殿が印象に残った神社でした。
本日は、ゆっくり目の出発でしたのでいい時間に。次なる神社は明日にして。

本日の旅泊地・七塚原SAにて車中泊
第20日目終了
本日の走行距離 164km
つづく
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