近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら
一宮町・一宮神社から次なる阿波國一宮「八倉比賣神社」へ。


神社を探していると、道路わきに鎮座している石仏があり、
停まって、手を合わせました。


目指す「八倉比賣神社」は、石仏のすぐ近くにありました。


社号額には「天石門別八倉比賣神社」とあります。

参道を進むと道が二股になり、右の道の先には「竪穴式住居」の様な建物が。
丁度いらした、管理者の様な方にお聞きして、左の道を進みます。


新しい木の鳥居をくぐり、木々の中の石段を上ります。

当社は、鎮座する杉尾山自体を御神体としているようだが、
はじめは杉尾山に連なる気延山の山頂に鎮座していたという。



その後、推古天皇元年(593)に現在地(気延山南麓 杉尾山)に鎮座した。

「天石門別八倉比賣大神御本記」と記された古文書が伝わり、
大日霊女貴命の葬儀の模様の記録であるという。


本殿
天石門別八倉比賣神社略記(右)
日本一社 矢野神山
延喜式内大社 正一位 天石門別八倉比賣神宮
御祭神 天照大神 古来大日霊女命と尊称
御神格 正一位、延喜式に記録された式内名神大社である。
仁明天皇の承和8年(841)8月に正五位下を授けられ、清和天皇貞観13年(871)2月26日に従四位上を次第に神階を昇り、後鳥羽天皇の元暦2年(1185)3月3日正一位となる。
御神紋 抱き柏
当社は鎮座される杉尾山自体を御神体としてあがめ奉る。江戸時代に神陵の一部を削り拝殿本殿を造営、奥の院の神陵を拝する。これは、柳田国男の「山宮考」によるまでもなく、最も古い神社様式である。
奥の院は海抜116m、丘尾切断型の柄鏡状に前方部が長く伸びた古墳で、後円部頂上に五角形の祭壇が青石の木口積で築かれている。青石の祠に、砂岩の鶴石亀石を組み合せた「つるぎ石」が立ち、永遠の生命を象徴する。
杉尾山麓の左右に、陪塚を従がえ、杉尾山より峯続きの気延山(海抜212m)一帯200余の古墳群の最大の古墳である。
当八倉比賣大神御本記の古文書は、天照大神の葬儀執行の詳細な記録で、道案内の先導伊魔離神、葬儀委員長大地主神、木股神、松熊二神、神衣を縫った広浜神が記され、八百萬神のカグラは、「嘘楽」と表記、葬儀であることを示している。
銅板葺以前の大屋根棟瓦は、一対の龍の浮彫が鮮かに踊り、水の女神との習合を示していた。古代学者折口信夫は天照大神を三種にわけて論じ、「阿波における天照大神」は、「水の女神に属する」として、「もっとも威力ある神霊」を示唆しているが、余りにも知られていない。
当社より下付する神符には、「火付せ八倉比賣神宮」と明記。
鎮座の年代は、詳かではないが、安永2年3月(1773)の古文書の「気延山々頂より移遷、杉尾山に鎮座してより2150年を経ぬ」の記録から逆算すれば、西暦338年となり、4世紀初の古墳発生期にあたる。しかも、伝承した年代が安永2年より以前であると仮定すれば、鎮座年代は、さらに古くさかのぼると考えられる。
矢野神山 奉納古歌
妻隠る矢野の神山露霜に にほひそめたり散巻く惜しも
柿本人麿(萬葉集収録)
当社は、正一位杉尾大明神、天石門別八倉比賣神社等と史書に見えるが、本殿には出雲宿祢千家某の謹書になる浮彫金箔張りの「八倉比賣神宮」の遍額が秘蔵され、さきの神符と合せて、氏子、神官が代々八倉比賣神宮と尊崇してきたことに間違いない。
古代阿波の地形を復元すると鳴門市より大きく磯が和田、早渕の辺まで、輪に入りくんだ湾の奥に当社は位置する。
天照大神のイミナを撞賢木厳御魂天疎日向津比賣と申し上げるのも決して偶然ではない。
なお本殿より西北五丁余に五角の天乃真名井がある。元文年間(1736―41)まで十二段の神饌田の泉であった。現在大泉神として祀っている。
当祭神が、日本中の大典であったことは阿波国徴古雑抄の古文書が証する。延久2年(1070)6月28日の太政官符で、八倉比賣神の「祈年月次祭は邦国之大典也」として奉幣を怠った阿波国司をきびしく叱っているのを見ても、神威の並々でないことが感得され、日本一社矢野神山の実感が迫ってくるのである。 -案内板より

案内板に記された「奥の院(五角形の祭壇と祠)」を拝す為に
本殿の奥に上ります。

確かに五角形です。五角形といえば「五芒星(ペンタグラム)」
この地にも陰陽道信仰が浸透していたのか。

この五角形の磐座だが、一説には卑弥呼の墓であるともいう。


社殿の横に置かれた狛犬と境内社
社務所の電話番号が書かれた紙が貼ってあり、電話をしてみましたが、
不在のようで、でられませんでした。
つづく
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