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徳島城 本丸跡から東二の丸跡にやってきました。

創建当時の天守は本丸に建てられましたが、元和年間(1615–1624)に
取り壊されたといわれており、その後、城山の中腹にある東二の丸に
天守代用の御三階櫓(3重3階建て)が構えられました。

御三階櫓は、一階七間四方、二階五間四方、三階三間四方で、
外観は全面下見板張、一重目に向唐破風と大入母屋破風が付けられ、
三重目には入母屋破風が付けられていたとされます。

徳島戦災犠牲者慰霊塔
東二の丸天守跡に昭和三十年(1955)設置(徳島大空襲10周年)

城山は、吉野川がつくった徳島平野の沖積地に孤立する小さい分離丘陵で、斜面は急で、傾度の平均は35.9度もある。古来、天然の常緑広葉樹林で覆われており、ほとんど伐採されず保護されてきた。昭和38年に「城山原生林」として市の文化財に指定した。現在は、長期的な安定状態の続く極相林としてのホルトノキ群落がみられ、小丘陵としては、豊かな自然度の高い生物相を示している。昭和59年にはホルトノキが「市民の木」に選ばれた。
・地形 海抜61.7m、東西約400m、南北約200m-案内板より

弁天池(蓮池)
城山南麓に残る古池、かつては池一杯に蓮が植えられていたので、蓮池と呼ばれた。この池の中央に築出した所に、七福神の一つである弁財天をまつる小社があり、南畔から朱塗りの欄干のついた木橋がかかっていたため、弁天池ともいう。
-案内板より

奥御殿の裏側、東二の丸の下は、自然石と石垣が混在していました。

徳島市指定文化財
史跡 城山の貝塚 昭和38年4月27日指定
貝塚は、古代人が食料とした貝や魚類・鳥獣類などの残滓や、生活に使用した土器や石器などいろいろな物を処分した「ごみ捨て場」であり、また時には死者を埋葬する墓地でもあった。
城山の貝塚は、約4,000~2,300年前の縄文時代後期~晩期を中心とする岩陰・洞窟遺跡であり、現在この3号貝塚のほかに1号貝塚・2号貝塚が存在する。
1922(大正11)年に鳥居龍蔵博士らによって発掘調査が行われ、なかでも2号貝塚では、ハマグリ・カキ・ハイガイなどを主体とした厚さ60~100cmにもおよぶ貝塚が確認され、縄文時代後期の土器片や、ほぼ完全な屈葬人骨1体を含む3体分の人骨が出土した。なお3号貝塚からは弥生土器も出土している。
城山の貝塚は、当時の人々の生活や自然環境を知るうえで重要な遺跡として、また本県における考古学調査の先駆けとなった遺跡としても評価されている。
徳島市教育委員会 -案内板より


城内から見た数奇屋門跡(手前)と旗櫓跡(奥)


旗櫓から続く屏風櫓跡(通路右手石垣の向うが表御殿庭園)


城郭東南角の月見櫓跡


月見櫓跡から見た「鷲の門(三木曲輪)」と「小見付橋(下乗橋)」
平野部にもかかわらず、川に囲まれた山という自然の要害を
利用した徳島城。堪能いたしました。

日本100名城スタンプ
徳島城(76)
つづく
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