~西へ~(133)17日目⑦ 日本100名城 徳島城Ⅳ | どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

「野宿でもお腹に肉のつく身哉」

日本一周・全県に足跡を目標に、車中泊やキャンプをしながら、
大好きなラーメンを食べ、100名城を中心にした城めぐりや
神社仏閣に参拝し御朱印を頂く、旅の絵(写真)日記です。

 
                    近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら


徳島城の本丸にあがってきました。


 平成15年(2003)まで徳島縣護國神社が鎮座していた本丸跡


 
本丸北側は急峻な斜面で、谷底には助任川が見えます。

  
 非常時の出入口「埋門(うずみもん)」があった本丸北側の虎口


  本丸跡
 徳島城の山城部分には、本丸・東ニの丸・西二の丸・西三の丸が置かれていました。
 本丸は標高約61mの城山頂上に置かれた曲輪(くるわ)で、山城部分のなかでは最も面積が広く重要でした。本丸には、中央に置かれた御座敷と城山の管理人であった御城山定番(じょうばん)の詰めた御留守番所のほか、弓櫓(やぐら)や東西の馬具櫓、武具櫓、火縄櫓が設けられていました。櫓は戦いの際には防御施設となりますが、普段は武器を収めていました・藩主は城山麓の御殿で暮らし、城山に登ることは稀でしたが、この御座敷にも藩主専用の部屋があり、台所も設けられていました。また本丸東部に置かれた鐘は城下町の火事の際に打ち鳴らされ、町人たちの危急を救いました。
 本丸の出入り口は東西の門が使われましたが、北口には御座敷の建物で隠された非常時の脱出口(「埋門(うずめもん)」)があり、大名の非常時に対する備えがうかがえます。
 東二の丸には三層の天守が設けられていました。一般的に、天守は城郭の最上部に建てられましたが、徳島城では本丸から一段下がった同地に置かれていました。天守の一階は7間(約14m)四方と大きかったのですが、天守台はありませんでした。
 西二の丸には鉄砲櫓と帳(とばり)櫓、その西方の西三の丸には材木櫓と平櫓が設けられていました。
 西三の丸の跡地には、現在水道水配水池が設置されています。 -案内板より




本丸跡南側には「清玄坊神社」が鎮座しております。


  清玄坊の由来について
清玄坊の元祖は清和天皇で、皇子民籍降下にあたり天皇より「源氏」の称号を賜わり、後に修験者となり三好家と共に、阿波に移り城山に祈祷所を建てていた。
蜂須賀公が阿波に入国、築城に際し付近の全寺社に移転を命じたが、清玄坊だけは頑としてこれに応じない為、公は一計を編み換地を与えると言って城下に連れ出し、紙屋町を通行中後から弓で射て謀殺した。
途端に蜂須賀家には、変事が続出したので公は清玄坊の祟に違いないと、前非を悔いて石碑をたて、末代まで供養することを誓った所、此の変事はピタリと止ったという。
以来紙屋町の住民は毎年お祭を続けている。
清玄坊の長男範月は家政公と和睦をし、父の菩提を弔う為、刻んだ石地蔵が霊験あらたかで、現在掃溜地蔵として瑞巌寺に安置する。
次男右京院、三男左京院は難を逃れて、阿波郡の東西善地に落ち着き、祈祷の傍ら農業をしながら酒巻家として今日に至っている。
その子孫の五宝翁太郎は徳島県立聾唖学校の創始者であり初代校長でもある。又真珠湾攻撃で魚雷不発の為、九死に一生を得た特攻隊員の酒巻和男も此の子孫である。 -案内板より


     


本丸東側の東坂より、天守が設けられていた「東二の丸」へ向かいます。





                             つづく







                当ブログの無断使用は禁止です。
                      メッセージにて確認をして下さい。その上で、 
                      文章引用・画像使用の場合は出典元URLを明記して下さい。