~西へ~(130)17日目④ 日本100名城 徳島城Ⅰ | どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

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「野宿でもお腹に肉のつく身哉」

日本一周・全県に足跡を目標に、車中泊やキャンプをしながら、
大好きなラーメンを食べ、100名城を中心にした城めぐりや
神社仏閣に参拝し御朱印を頂く、旅の絵(写真)日記です。

 
                    近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら


護國神社にて英霊に感謝の拝礼をし、次なる地「徳島城」へ。

     
国指定史跡(平成18年1月26日指定)
  徳島城跡
 徳島城は、天正13年(1585)に阿波国(17万6千石※)の領主となった蜂須賀家政(はちすかいえまさ)(1558~1638)によって建設されました。築城にあたっては、天下人豊臣秀吉(とよとみひでよし)の命により伊予の小早川隆景(こばやかわたかかげ)や土佐の長宗我部元親(ちょうそがべもとちか)、比叡山の僧侶が協力しました。
 徳島城は標高約61mの城山と北を助任川、南を寺島川(現在のJR線路)に囲まれ、東には堀を設けた、自然の地形を巧く利用した城でした。徳島城の構造は、山上の本丸・東二の丸・西二の丸・西三の丸、南麓の御殿(一部は現徳島城博物館)、西麓には隠居した藩主等の住んだ西の丸からなる平山城でした。
 藩主が暮らしたのは、天守のある城山ではなく麓の御殿でした。御殿は藩主の居間や藩主が家臣たちを引見する広間(121.5畳)や大書院(110.5畳)のほか、重臣たちの詰めた部屋のあった「表」と藩主の側室・子どもとその身の回りの世話をした女中たちが住む「奥」に分かれていました。「奥」は藩主とその家族以外の男子は入ることが出来ませんでした。
 藩主の居城として徳島藩のシンボルであった徳島城は、明治になると役目を終え、明治8年(1875)に解体され、現在では石垣や表御殿の庭園を残すだけとなりました。 
-案内板より


     
  徳島城鷲の門
 徳島城(別名 渭津城)は、天正十三年(1585)に阿波に入国した蜂須賀家政が築城した屋形造りの平山城であった。幕藩時代を通じ蜂須賀家が十四代にわたって居城し、二百八十余年の間、阿波・淡路両国二十五万七千八百石を支配した。
 鷲の門は、この徳島城の巽(南東の方向)に位置する表口見付の門で、その造りは脇戸付きの薬医門であった。
 幕府に鷲を飼うからと申し立て建造したところから鷲の門の名があると伝えられている。 廃藩置県の後、城郭の建造物は取り壊され、唯一残された鷲の門も昭和二十年(1945)七月四日早暁の徳島大空襲によって焼失した。
 現在の鷲の門は、平成元年(1989)九月二十七日、徳島市制百周年を記念して、吉井ツルエ氏(徳島市出身)より復元寄贈されたものである。
          徳島市    -案内板より

薬医門形式の門で、門本体の大きさは旧鷲の門と同じですが、門本体の
左右(南北)に伸びる御番所および腰掛長屋は少し短くなっています。
また、門の位置も往時とは少し異なっています。


 鷲の門(復元)
各建物の大きさ(間口×奥行き×高さ)
御番所  6.93m×3.96m×4.28m 檜造瓦葺
門    7.78m×3.21m×7.73m 総欅造瓦葺
腰掛長屋 6.93m×3.96m×4.28m 檜造瓦葺



 城の東側を守る「堀川」



徳島城の石垣は、運送等の問題から、内陸(本州)で採れる石材は
使われておらず、眉山の三波川変成岩(結晶片石)が使われています。


  下乗橋(小見付橋)
 城内の掘に架けられた木製の太鼓橋で、殿様の住む御殿への正面出入口にあたり、この橋を渡ると桝形が設けられ石垣や門によって厳重に守られていました。
 下乗橋の名前は、橋の前で駕籠などの乗り物から降りて歩いて渡ったことから由来しています。
 明治二年(1869)に花崗岩製となり、さらに同四十一年(1908)現在のように水平の橋に改造されました。 -案内板より



 往時の下乗橋(小見付橋)



では、下乗橋をわたり、城郭山麓の表御殿へ。

 
 大手門跡



                             つづく







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