~西へ~(129)17日目③ 徳島県護国神社Ⅱ | どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

「野宿でもお腹に肉のつく身哉」

日本一周・全県に足跡を目標に、車中泊やキャンプをしながら、
大好きなラーメンを食べ、100名城を中心にした城めぐりや
神社仏閣に参拝し御朱印を頂く、旅の絵(写真)日記です。

 
                    近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら


徳島縣護國神社の慰霊碑に拝礼いたします。

 
 徳島市傷痍軍人会 仝妻之会           硫黄島戦没者之碑
昭憲皇太后 御歌                  
 皇いくさの みちにつくしし まこともて なほ国まもれ ちよろずの神
昭和天皇 御製
 國守ると 身をさずつけし 人びとの 上をしおもふ 朝に夕に

  
  海軍甲種飛行予科練習生          海軍戦没者慰霊碑
   殉国の若鷲慰霊之碑
碑文
 海軍航空戦力の増強を目的として、甲種飛行予科練習生制度が制定され、強靭な肉体と精神力を兼備した心身共に優秀な青少年が求められ、昭和12年9月1日、自ら志願した第1期生が横須賀海軍航空隊に入隊、爾来16期生まで全国各地の航空隊において厳しい訓練の後、先の太平洋戦争において搭乗員として参戦し救国の大義に殉じられた同郷の百余柱の御霊の冥福と祖国の永遠の平和を祈念して、この碑を建立する
   平成18年10月吉日  徳島甲飛会 


 
  歩兵第六十二連隊第二大隊        ソロモン群島戦没者慰霊碑
   戦友之碑                 徳島県ソロモン・ブーゲンビル会 
碑文
 日支事変の勃発に伴い我が歩兵第六十二連隊は、四国4県の連隊の精鋭と関東軍の一部で編成され第二大隊は徳島第四十三連隊が母体となり昭和十三年四月坂東町の兵舎で完了しました
 昭和十三年九月 河北省塘活に上陸し鉄道警備治安粛正のかたわら蘇北作戦 宇学忠軍殲滅作戦第2次魯南 劉共作戦中原会戦と数百回の討伐作戦をくりかえし 三年有余1日として休む暇なく戦いこの間軍司令官から数々の賞詞を頂きその戦果と殊勲は燦然と輝きました 大東戦争に突入するや昭和十七年二月比島に前進rンガエン湾に上陸第1次総攻撃は挫折第2次バタアン総攻撃に参加要塞に立てこもる米比軍7万との決戦は我が方が一発撃てば30発以上の応酬で特にタニサイ河とアボアボ河の合流点での二週間に亘る死闘は実は凄惨苛烈で十数回の肉弾突破をくりかえし遂に敵の堅塁を抜き米比軍壊滅の大きな端緒を作りました 第二大隊の戦史に燦然たる光彩を放ち方面軍司令官から数々の賞詞を頂きバタアン戦争のその悲惨なことは大戦中でも全軍の中のワースト5の内に数えられ苦難な戦いでは何人の筆をもってしても書き表すことは出来ません 更に五月から九月までレイテイ島サマール島の戡定作戦中に師団復帰の命に依り数多くの尊い戦友の血で染め上げた比島を後にマニラ港を出帆十七年十二月サイゴンに上陸 第二大隊はハイホン附近の警備につき 十八年四月ビンエン兵舎では五年目にして初めて軍紀の下に集い苦難の中をよくぞ生き、残れたと戦友が手を取り合ったあの感激が忘れる事が出来ません 
 息つく間もなく大陸打通作戦の第1号策応作戦続いて明号作戦と実に複雑多岐に亘り広範囲に展開する連隊は遠く国境まで拡がり終戦の大詔を知るよしもなく尚被害が続出し連隊の歴史は八年半広大無辺の大陸に酷暑瘴癘の南の地に転戦常に勇戦力闘秋本中佐以下三百八十有余名が壮絶な戦死を遂げ病魔に斃れた戦友を思うとき感涙滂沱として頬を伝う
 編成当時は主として徳島県人でした其の後の補充は東北北陸甲信越の方々が主力で徳島県人の色彩は薄くなっておりましたが、第二大隊発祥の地 ここ徳島縣護國神社の境内に亡き勇士の鎮魂の意義を大きく含め戦友の碑を建立し、歩兵第六十二連隊第二大隊の不滅の功績を永遠に伝うるものであります
  歩兵第六十二連隊第二大隊有志 昭和五十七年四月二十九日 建立


      
【左】若鷲の碑 陸軍少年飛行兵
碑文
 我が国が軍国日本として世界に君臨した昭和初期清純な青春のたぎる血潮を一すじに祖国守護の若鷲として戦果の大空に愛機と共に活躍した陸軍少年飛行兵は三軍の花とうたわれたのであるが惜しくもその半ば悠久の大義に燃えつつ雄々しく翼と共に散華したのである
 戦后志を同じくした者相集い少飛会を結成茲に記念碑を建立し永しえに少飛の名をとどめんとするものである
 昭和五十四年十月吉日  徳島県少飛会建立


【右】比島戦歿者の碑
碑文
 太平洋戦争における比島戦没者の内、本県出身者の多くは首都マニラの東部に位置する山岳地帯で散華されました。
 昭和54年、徳島県遺族会が主催した第2回比島戦跡巡拝団によって戦没地の山々が望めるアンッシポロの丘陵に鎮魂の碑を建立しました。 しかし、時代の経過の中で碑の建立地周辺が市街化によって慰霊環境の悪化が進んだため、鎮魂碑を平成16年に日本に持ち帰り、当護國神社境内に再建立しました。
 昭和五十四年一月 建立   徳島県遺族会青年部


       
【左】慰霊碑 徳島船砲会
碑文
(表)
 戦友よ父よ夫よ兄弟よ
 墓標なき千尋の海にさまよへる御霊よ
 此の地に帰りて安らかに眠り給はん事を心から祈る
(裏)
 大東亜戦争下広域海洋作戦における輸送船は祖国と前線を結ぶ大動脈であり、戦争末期に至り頼みとする我が海空軍は壊滅状態に近く之が護衛に任ずる船砲隊は僅かの火砲を以て敵潜敵機の猛攻に死守応戦せるも、遭難せる船舶2568隻843万屯に達し、郷土出身の船砲隊勇士の太平洋のわだつみ深く鎮まりたる者百二十四柱を数ふ。戦後三十余年を経し今日に至るも、現地の墓参遺骨の収集は至難の業にて痛恨の極みなり。茲に亡き戦友の御霊の安らぎを祈念し、その勲功を讃へ氏名を刻し永く平和の礎として碑内に安置せり
  昭和五十八年三月二十日   徳島船砲会


【右】歩兵第四十三聯隊戦没者慰霊碑
碑文
(右)
 歩兵第四十二連隊略史
  明治31年3月24日 宮中に於て軍紀拝受
  明治31年4月19日 日露戦争出征 旅順・清河城 撫順 転戦
  明治42年9月9日  満州駐剳派遣 鉄嶺警備
  大正9年9月26日  シベリア出兵 浦塩ブッセッカ警備
  昭和7年2月23日  上海事変出征揚子江辛口上陸
  昭和12年8月14日 支那事変出征羅店鎮南翔無錫転戦
  昭和12年9月二十二日 満州派遣 虎林駐屯 満ソ国境警備
  昭和20年4月7日  本土防衛のため四国に帰還
  昭和20年8月15日 高知浦戸湾防衛中終戦
  昭和20年8月18日 高知市仁井田実盛塚にて軍紀捧焼
(左)
 戦没英霊慰霊碑建立経過
裏:昭和五十一年八月二十一日建立 平成元年十一月十一日再建  歩兵第四十三聯隊戦友会



【左】軍馬之霊碑
【中】関東軍防疫給水部隊呉支部戦友会
碑文
 黒龍江千里の流れ今眠る 厚い氷にとざされて 
 雪のシベリヤ 満州の中をたてし
 春を待つ 春を待つ
満州国黒河省孫呉縣鈴蘭ヶ丘 満州第七三一部隊六七三部隊

【右】桜飛会徳島戦没者慰霊碑
碑文」
(表)
 海軍甲種飛行予科練習生十二期前期 昭和十八年四月 鹿児島海軍航空隊入隊
(裏)
 戦没者 15名の御英霊の出身町、氏名が刻まれている。
 同期戦没者を悼み世界平和を祈念する  平成十六年四月吉日
    建立者 桜飛会徳島支部 同期生及び遺族



境内社

 
 大國神社
昭和五十六年(1981)、出雲大社より御神像を拝戴して創建


 覆屋に覆われた本殿


       
        徳島縣護國神社 御朱印


全ての兵者に敬意を表しますと共に、英霊の御霊に感謝の誠を捧げます。





                             つづく







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