近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら
大鳴門橋を渡り、四国へ上陸です。

中華そば 春陽軒(千松幼稚園の近く)
高速をおりてコンビニで聞いた店。店内に入ると待ちの人が並ぶでもなく
立っている。従業員がいないので、どうしていいか分からず、食券を買い
端の方に立って待つ。テーブル席は埋まっているが、カウンター席には、
2.3の空席がある。よく見ると食べ終わって新聞を読んでいる人や話を
している人が居る。効率の悪い店だ。席に着き注文をすると、少し待た
されて着丼。先ずは玉子を溶かずにスープを頂く。ん~ん、ぬるい。
これで、玉子を溶いたら…。出汁感控え目、カエシの醤油が我が物顔で
出ています。ぬるま湯+醤油+化調+トンコツ出汁少々的なスープです。
中細直の麺はスープを吸って、小麦はどこかへ行ってしまい行方不明。
メンマ?ネギ、茹モヤシ少々は、まぁいいが、小間切れの肉は、牛丼の
肉が煮詰まってしまったような味。玉子を絡めると少しは良くなったが…
ラーメンとして成立しているのだろうか?麺入りのゴハンのおかず?

中華そば 肉玉入り(小)+ライス(小)
徳島ラーメンとは?なんて考えながら向かった先は、徳島縣護國神社です。

新しくとても綺麗な神社でした。


それもそのはず、平成十二年に移転造営された社なのです。


由緒・沿革
明治12年徳島市の眉山公園内に戊辰戦争からの戦没者を慰霊顕彰するために招魂碑を建立したのが当神社の創祀です。明治39年徳島城跡地(徳島中央公園城山山頂)に移転し、昭和13年には「徳島縣招魂社」として神社が建立され、翌14年には内務大臣指定「徳島縣護國神社」と改称しました。
昭和20年の徳島大空襲ですべての建造物を焼失しましたが、昭和33年戦後混乱期の社会情勢の中で官民一体となり、県民挙げての奉賛により再建されました。
昭和53年には御創社百周年記念として境内整備事業が完工し、昭和63年には御創建三十周年記念事業として社殿屋根銅板葺替工事が行われました。
ところが、その城山山頂はもともと徳島市からの借地であり、原生林保護区域にも指定されていたため車道整備などの開発ができず、遺族・崇敬者の参拝も大変不便であったことから、平成になって再度移転の話が持ち上がりました。そのようななか現在地にお住まいになられていた女性篤志家から移転用地(約2,700坪)の寄進を受け、遺族を中心に多くの県民からの奉賛を受けて、平成15年本殿・社務所参集殿の新築、拝殿・手水舎・慰霊碑および境内諸施設の移設等を完了、正面入口には石造りでは四国最大級の大鳥居が竣工し、今の姿になりました。
-徳島縣護國神社公式Webより


ニの鳥居 徳島県護国神社移転造営之記

拝殿

ご祭神
明治戊辰の役より幾多の事変並びに戦争等の国難に殉ぜられた徳島県出身の英霊34,368柱を奉斎し、また相殿に徳島県出身の殉職自衛官の御霊24柱を奉斎しています。 -徳島縣護國神社公式Webより

御参拝
昭和42年6月6日 常陸宮同妃両殿下御参拝
御奉納
昭和35年 天皇陛下より幣帛料御下賜
昭和40年 天皇陛下より幣帛料御下賜
昭和50年 天皇陛下より幣帛料御下賜
昭和60年 天皇陛下より幣帛料御下賜
平成5年 天皇陛下より幣饌料御下賜
平成7年 天皇陛下より幣帛料御下賜
平成10年 天皇陛下より幣饌料御下賜
平成17年 天皇陛下より幣帛料御下賜 -徳島縣護國神社公式Webより

本殿
つづく
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