~西へ~(124)15日目③ 淡路国総社 十一明神神社 | どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

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「野宿でもお腹に肉のつく身哉」

日本一周・全県に足跡を目標に、車中泊やキャンプをしながら、
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神社仏閣に参拝し御朱印を頂く、旅の絵(写真)日記です。

 
                    近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら


淡路国一宮から総社に向かいます。



天気も良く、海を見ながら快適な運転が続きました。



少し迷って、淡路國総社 十一明神神社に到着です。


 神門

「當国惣社十一大明神」の社号額



隋神門だったと思われる神門をくぐり境内へ。


 玉垣に囲まれた社殿

    
              立派な尻尾とギョロ眼な狛犬

     
  (左)扁額(湊口神社、河上神社、志筑神社、賀茂神社、石屋神社、
    伊勢久留麻神社、築狭神社、由良湊神社、岸河神社、笶原神社、久度神社)


  (右)淡路一国総社十一大明神縁起
 右当十一大明神は 当国総社と崇尊して延喜式に載せられたる霊社 にして古昔祈年祭等に国幣を奉られ国司以下散斎致斎して会祭し給 えり貞観年中国府を三原郡に定め給い国中に散在せる諸社を此地に 卜し定めて総社と崇め奉る所なり 神祇官衰微してより中古の国司社 領をさえも滅損して古伝を失いたりといえども本社の基址厳然として 猶存し古社の絵図及神像歴然として顕存す 永禄元年社僧長寿院宥怡 の筆なりという当社の縁起を伝えたり 其概略を摘むに曰く 十一明神 は神代の昔 天照大御神の大御言を以て 八百万神達を神集に会め給い て荒振神達を平治しめ給う地にて此邪神四海に充満て大八洲六十 余洲五穀不穣大御神ここをもて天児屋根命に勅して悉く平治し給う  是より禾穀豊熟して万民栄を楽しむ 其後神功皇后の御時西海の夷狄 襲い来りて宇内また静かならず 応神代天照大神を初とし大廟の神 を十一社に祭り給いて西夷鎮護並三韓出兵の祈願奉せられ神功皇后 自ら祈願を籠めて奇瑞を蒙り給い帰朝の後 瑞垣を修理し給う所なり  故に皇軍出陣御首途神の祝い奉る所なり 其後大炊天皇の御時 宝字 大上天皇僧道鏡等の為に当国に御遷幸あらせ給えるに辱くも当地に 行宮を営造あらせられ 当社に行幸ましまし奉幣し祭奠厳にして夏中 の法施㝡勝講などあり国家安泰万民の快楽を祈る依りて一国総氏神 と称して崇敬し毎年十一月十一日祭礼の日諸方氏子の頭今に断ぜず 御柴と名付けて調達すること常例なり 当国兵乱の後 神領を失いて より神殿等古の十が一分にだも及ばず本地堂拝殿鐘楼客人社神楽殿 等皆朽損に及びぬ唯社地の古図旧記等纔に存して今に及べり ここに 別当社僧等大願を起し本殿に修理を加え 総社の神号を弘め 四海奉平 の基を開き神徳を万民に輝かさんとす 抑 当社の濫觴は邪神退散の 始に起り 異国出兵の首途に栄え百穀豊熟の祈願に成るなれば 当社の 繁栄は実に国家の繁栄になるなり 願くば内外の瑞垣を清潔にして 永く国土の鎮撫たらんことを 故に 当社の略縁起を録して諸人渇仰 の扶を祈るという -案内板より


 向拝の彫刻と扁額

    
  本殿(流造)              脇障子の彫刻

 
                境内社と石祠

 
  「埴安媛命 少彦名命」 天保八年 丁酉年五月吉日

       

神門を出ると、遠くに鳥居が見えましたので行ってみました。



       


鳥居までは200m以上まっすぐな参道が続く。
昔は可也な規模の神社だったようだ。



                             つづく







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