~西へ~(116)13日目⑧ 源家祖廟 多田神社(清和源氏三社)Ⅰ | どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

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日本一周・全県に足跡を目標に、車中泊やキャンプをしながら、
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神社仏閣に参拝し御朱印を頂く、旅の絵(写真)日記です。

 
                    近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら


時間的に本日最後かな。



訪れた先は、清和源氏三社のひとつ、源家祖廟「多田神社」です。

        


 南大門(三間一戸の八脚門 本瓦葺き)<県指定重要文化財>
多田院のもとの仁王門であり、両脇に仁王像があった。
明治4年神仏分離の折、仁王像は満願寺山門に移転され、安置されている。 
-多田神社公式Webより



 説明事項
当神社は、元多田院とも、亦多田大権現社とも称えて、関西日光の称ある大社である。
御祭神は、第五十六代清和天皇の御曽孫贈正一位鎮守府将軍源満仲公を首め、頼光、頼信、頼義、義家の五公を奉斎する所謂、源氏の祖廟であり、源家発祥の地である。
五公が国家の藩屏として尽くされたる偉勲功績は、我が国史上燦として輝き、縷述を要しないが、満仲公が武門の棟梁たる勅諚を賜り、国家鎮護の大任を、果たされたるのみならず、或いは、沼地を開拓して多くの田畑を造り、或いは、河川を改修して港湾を築き、或いは、鉱山事業等殖産興業に力を注ぎ、国力の増進と源家興隆の基礎を築かれ、又頼光公の鬼賊退治頼信公が平忠常を伐ちて、関東を平定し頼義、義家の二公が前九年、後三年の両役に自ら大軍を率いて辺陲に赴き、奥羽の豪族を誅滅せられたる等、萬民等しく畏敬欽仰する処である。
依って当神社は古来武軍長久の勅願社として、且又家運隆昌、勝運厄除の守護神として、崇敬せられている大社である。
現在の社殿神廟は、徳川四代将軍家綱公の再建に係るもので、境内は二丁四面に、内廓と外廓との二重になって、外廓南門に楼門(県指定)、東西に高麗形の大門(県指定)があり、それに社務所、授与所、宝物殿、儀式殿、斎館、休憩所等がある。
また内廓には、神廟、御本殿(国指定)、拝殿(国指定)、随神門(国指定)、神輿庫、宝蔵庫、神馬舎があり、尚別当門、坊址門等があって、頗る雄大荘厳な神社である。
宝物殿には、多田神社文書(国指定)、源家宝刀「鬼切丸」を始め、甲冑、書画等を所蔵している。
境内は静寂にして、楼門階下の猪名川の清流奇岩の間を早瀬が、水泡を飛ばし、又後方鷹尾山を控えた、高地であるから、眺望絶佳、老杉、古松、楓桜相交わり、殊に日本一と称せられる「唐椿」(キャプテンロー)を始め招霊(おがたま)・無患子(むくろじ)共に県郷土記念物等珍しい樹木がうっ蒼として繁茂し四季共に清遊にも適する、清浄の霊地である。
かかる観点より文部科学省に於いては、我国史上重要なる地域であるとして、文化財保護法により史蹟に指定せられているのであります。 -案内板より


    
   清和源氏系譜            指定文化財解説板


 随神門(三棟造りの八脚門 本瓦葺き )<国指定重要文化財>
徳川四代将軍家綱公により再興。
両脇に築地塀が付き、三楝造と呼ばれる伝統的な手法により建てられた八脚門。
豊岩間戸尊、櫛岩間戸尊の二体の随神像が安置されている。  
-多田神社公式Webより




随神門をくぐると、全く違う空気になった気がしました。


 拝殿(寛文七年(1667年)の建立、正面七間側面三間、梁間山間の
      入母屋造り檜皮葺き)<国指定重要文化財>
徳川四代将軍家綱公により再興。
桁行7間、梁間3間の大規模な入母屋造、檜皮葺屋根の構造物である。 
-多田神社公式Webより


      
          子取りの狛犬(吽形)と玉取りの狛犬(阿形)

 
             笹竜胆と三つ葉葵が合わさった紋


 拝殿ない


 御本殿(寛文七年(1667年)の建立、正面七間側面三間の社殿)
<国指定重要文化財>
徳川四代将軍家綱公により再興。桃山時代の姿をそのまま継承した、
素木の入母屋造、檜皮葺屋根の建造物としてすぐれた遺構となっている。 
 -多田神社公式Webより





                             つづく







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