近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら
鉄門跡を過ぎると、篠山城二の丸です。

目の前には、平成十二年に復元された「二の丸大書院」が。
(内部の見学が出来るので、後ほど)

大書院(南側)


二の丸大書院
篠山城大書院は二の丸跡に所在した城主居館の中で、とくに歴代城主による公式行事に使用された場所で、正規の書院造の建物となっていました。
この建物は慶長十四年(1609)の徳川幕府の天下普請による篠山城築城時に、京都二条城の御殿を参考にして建てられたと伝えられ、大きさは東西二十八メートル、南北二十六メートルの篠山城最大の規模となっていました。内部には上段の間、孔雀の間などの多くの部屋があり、障壁画で飾られていたと考えられます。
廃城後もこれだけ残されましたが、昭和十九年の失火により失われました。その後、焼失から五十六年たった平成十二年三月大書院の威容が大書院跡地に蘇りました。
-案内板より

二の丸に建っていた「小書院」「奥御殿」「台所」などは、
平面表示されています。

二の丸西側の多聞櫓跡からみた本丸


二の丸南側にある井戸 (左)
(奥の石垣の上にも多聞櫓が建っていた)
史跡篠山城跡二の丸御殿整備 (右)
平成10年度に「史跡篠山城跡二の丸御殿及び外構設計検討委員会」を設け、整備方針及び内容を決定し、平成11〜13年度にかけて国、県の補助を受け、整備工事を実施した。
御殿は、大書院(おおしょいん)のように立体的に復元できる資料がないため、現在発見されている6種類の間取図の中で最も古い図(江戸時代中期頃)をもとに平面表示の工法で整備を実施した。
さらに遺構保護の観点や建物跡が明確に周辺と異なった空間であったことを示すため、盛土(もりど)により御殿跡全体を周辺地盤よりかさ上げした。
二の丸
二の丸は、大書院、小書院(こしょいん)、中奥御殿(なかおくごてん)、奥御殿(おくごてん)、台所(だいどころ)などの建物と築山(つきやま)をもつ庭園があり、儀式、執務を行う場と城主の生活空間の場で篠山城で最も重要な場所であった。
これらの御殿群の周囲には三層の櫓1棟、二層の隅櫓5棟とそれをつなぐように多聞櫓(たもんやぐら)と門が配置されていた。
現在残っている二の丸御殿間取図(にのまるごてんまどりず)や発掘調査の結果から御殿は、江戸時代に何度か建て替えられたり、増築されたりしていたようである。
しかし大書院を除く建物は廃藩後には取り壊され、唯一残っていた大書院も昭和19年に焼失し、城郭の建物はすべて無くなってしまっていた。 -案内板より
〇印が井戸、井戸左下が埋門、右が書院

篠山市公式Web「CDによる篠山城再現」をお借りし印しを付けました。

埋門跡(二の丸南側)
本丸は、二の丸より一段高くなっています。


二の丸から見た本丸石垣

本丸には、現在、「青山神社」が鎮座しております。

青山神社
青山神社は、1882年に本丸跡に建立され、篠山藩主青山氏の遠祖青山忠俊と第12代藩主青山忠裕が祭神として祀られています。青山氏は譜代大名で幕府の要職を歴任した家柄で、中でも忠裕は30年余り老中を務め、その功績により篠山藩は5万石から6万石に加増されました。毎年4月第1土曜日(宵宮)と日曜日(本宮)に青山神社の祭礼が行われます。本宮では、春日神社へ渡御の行列があり、御輿とともに鎧や薙刀を身に着けた小学生たちが太鼓と法螺貝の合図で練り歩きます。 -案内板より


青山忠誠公頌徳碑 贈正一位 隆徳青山君碑
(青山忠誠公略伝)
安政六年二月十五日 篠山藩主 青山忠良の子として江戸(現東京)に生まれた。明治八年旧藩子弟を東京に招き学資を給して進学させ邸内に寄宿舎を設け、尚志館のもとを開いた。
明治九年篠山に篠山中年学舎を設け人材の育成に努め鳳鳴義塾(現篠山鳳鳴高校)の基礎を築いた。
明治二十年七月二十三日東京で病死(享年二十九歳)明治二十五年正四位を追贈された。
青山神社 -案内板より

篠山城本丸跡
ここは、篠山城の最後の砦(とりで)となる本丸跡です。築城当初は現在の二の丸が本丸、現在の本丸は南東の隅に、天守台が造られたことから、特に殿守丸(てんしゅまる)と呼ばれていました。
天守台の大きさは東西約十九メートル、南北約ニ〇メートル、約三八〇㎡の広さがあります。天守台石垣は本丸内側からの高さ、約四メートル、外側の南と東側犬走りからの高さ約十七メートルで、篠山城で最も高い石垣です。
天守閣は築城の時に建築が中止され、代わって天守台南東隅にニ間四方(四メートル四方)の一重の隅櫓(すみやぐら)が建てられました。
本丸の周囲は天守台と南西隅・北西隅の三ヶ所に二重の隅櫓を建て、間を多聞櫓(たもんやぐら)でつないで内部を囲んでいました。二の丸には大書院をはじめとする御殿が建てられたのに対して、本丸には御殿等の建物は無かったようす。
本丸内の北側中央にある一の井戸は岩盤を掘り抜いたもので、深さ約十六メートル(内水深約八メートル)で、掘るのに二年もかかったと伝えられています。
篠山市教育委員会 -案内板より

天守台(てんしゅだい)
天守台は本丸(殿主丸)南東部の城内で最も高く、奥まったところに位置し、石垣の高さは約17m、平面規模は東西約18m、南北約20mであります。
築城(1609)時に、天守閣は江戸幕府の指示により、城郭(じょうかく)が堅固(けんご)すぎるとの理由で建築を中止し、代わって、南東隅に二間四方(4m四方)単層の隅櫓(すみやぐら)を配置し、東面と南面に土塀をめぐらせていました。
東方には丹波富士と呼ばれる中世の山城である高城山(たかしろやま、八上城跡)が美しい姿を見せております。
平成10年10月吉日 篠山町 -案内板より

天守台から東方面を見る(三の丸東跡には小学校)
つづく
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