近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら
丹波國の総社、一宮を参拝し、続いては、
丹波篠山盆地に築城された「篠山城」に登城します。


東三の丸跡に建つ篠山小学校を左手に見て通過し、
西三の丸跡にある駐車場に旅の友・エブリイを停め登城開始です。

篠山城は、1辺約400mのほぼ正方形の外堀の内に三の丸、そして、
内堀に囲まれた二の丸、本丸を設けた輪郭式平山城です。


国指定史跡 篠山城跡
篠山城は、慶長14年(1609年)に、天下支配を盤石なものにしようとする徳川家康が、豊臣方の拠点である大阪城を包囲するとともに、豊臣家ゆかりの西日本の諸大名を牽制するために、山陰道の要衝に築いた城である。築城工事は、旧豊臣大名の経済力を弱めることを目的に天下普請とされ、山陰道、山陽道、南海道(近畿、中国、四国地方)など15カ国20の諸大名が動員された。城は、当時『笹山』と呼ばれた独立丘陵を利用して築いている。工事は、開始から1年に満たない短期間で出来上がるという突貫工事で進められた。笹山は全体が堅い岩盤であったため、難工事の中での完成であった。篠山城の縄張は、築城の名手といわれた藤堂高虎が行った。堀を二重に廻し、外堀の三方に出入口として馬出しを設け、防御に徹した城構えとなっている。方形の城は出入口が弱いため、そこに手厚い防御施設を構えたのである。天守閣は、城の完成を急いだことと実戦向きの城としたため築かれなかったが、二の丸には大書院に代表される御殿が建てられた。築城から5年後の大坂冬の陣(慶長19年(1614年))、その翌年の大坂夏の陣(慶長20年(1615年))で、城主の松平康重は篠山城から大坂城攻撃に出陣し、篠山城は家康がねらった通りの役割を果たすことになる。さらに、夏の陣を経て江戸幕府が安定すると、篠山城は西日本の諸大名の押さえの城として位置づけられる。江戸時代を通して、幕府が信頼した譜代大名の4家が、藩主として次々と移ってくることになる。
名称 国指定史跡篠山城跡
城の種類 平山城
城の形状 輪郭式と梯郭式の併用
面積 19.3万平方メートル -案内板より


上級武士の屋敷があったとされる三の丸西を内堀沿いに南へ。

三の丸南側から見た二の丸、本丸の石垣
(とても半年で築城したとは思えない、見事な石垣です)

三の丸南側虎口を出て、外堀をこえ、南馬出へ向かいます。

外堀


南馬出
篠山城は上空から見ると正方形のとてもシンプルな形をしていますが、当時の最先端の築城技術が用いられた、守りの堅い城です。馬出とは、城で入口の守りを固めるために、外堀の外側に作られた曲輪の一種ですが、城から攻めだす時には兵馬を集めて一斉に攻撃する時にも使われます。馬出は大手、東、南に設けられましたが、現在は東馬出と南馬出が現存しています。 -案内板より

篠山市公式Web「CDによる篠山城再現」をお借りし印しを付けました。
南馬出は、3m以上の土塁に囲まれておりました。

城内へ戻ります。

三の丸南の虎口(奥の石垣上は二の丸)

足軽長屋があったとされる三の丸南を東へ(石垣右奥が天守台)

南埋門跡

篠山市公式Web「CDによる篠山城再現」をお借りし印しを付けました。
三の丸東には学校が建っており、内堀沿いに回る事が出来ません
でしたので、引き返して大手より二の丸へ。
つづく
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