~西へ~(104)12日目⑦ 六孫王神社(清和源氏三社) | どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

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「野宿でもお腹に肉のつく身哉」

日本一周・全県に足跡を目標に、車中泊やキャンプをしながら、
大好きなラーメンを食べ、100名城を中心にした城めぐりや
神社仏閣に参拝し御朱印を頂く、旅の絵(写真)日記です。

 
                    近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら


「源氏三神社」の1つ、清和源氏始祖の源経基公をお祀りする
「六孫王神社」に到着です。

      

 ご祭神は、
六孫王大神(ろくそんのおうおおかみ)源経基(経基王)
経基は清和天皇第六皇子の貞純親王の子で、天皇の孫であることから
「六孫王」と称されました。

天照皇大御神(あまてらすすめおおみかみ)
八幡大神(はちまんおおかみ)

    
 石灯篭
文久二年壬戌歳九月十一日
陸奥國盛岡城主従四位下 行左近衛權少将兼美濃守 源朝利剛 (寄進)
*陸奥国盛岡藩の第14代藩主 南部(源朝)利剛

        

社伝によると、境内は源経基の邸宅「八条亭」の跡地であるといい、応和
元年(961)に経基公臨終の際に「霊魂滅するとも龍神となり邸内(西八条)
の池に住みて子孫の繁栄を祈るゆえにこの地に葬るよう」と遺言された。
そして、応和三年(963)嫡子の満仲が現社地に経基の墓所を建立し、その前
に社殿を造営したのが当社の創建であるとしている。本殿後方に現在も残
る石の基壇は、経基の廟であると伝わる。
鎌倉時代には、源実朝の妻の本覚尼がこの地に遍照心院(大通寺)を建立、
当社はその鎮守社とされたという。
 

元禄十三年(1700)からは、江戸幕府により社殿の再興が進められ、宝永四年
(1707)までには社殿が再建され、現在まで伝わる。


 社殿

      
   誕生水辨(弁)財天社          睦弥稲荷

        
          六孫王神社 御朱印


清和源氏三社、2社目に参拝する事が出来ました。
ありがたい、ありがたい。




                             つづく









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