~西へ~(89)11日目② 近江国一宮 建部大社Ⅱ | どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

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「野宿でもお腹に肉のつく身哉」

日本一周・全県に足跡を目標に、車中泊やキャンプをしながら、
大好きなラーメンを食べ、100名城を中心にした城めぐりや
神社仏閣に参拝し御朱印を頂く、旅の絵(写真)日記です。

 
                    近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら


「日本武尊」をお祀りする「建部大社」にきております。


 神門(檜皮葺き)

   
 近づくと音楽が流れる手水舎(檜皮葺き)



 ご由緒
当社は古来、建部大社、建部大明神などと称え、延喜式内名神大社に列し、又近江国の一之宮として朝野の崇敬篤く、長い歴史と由緒を持つ全国屈指の古社です。
御祭神、日本武尊は御年僅に16才にて熊襲を誅し、更に東夷を平定され、遂に32才にして伊勢の能褒野において崩御されましたが、父君景行天皇は尊の永逝をいたく歎かれ、御名代として建部を定め、その功名を伝えられました(日本書紀にしるされている)これが即ち建部の起源です。
景行天皇の46年、神勅により御妃 布多遅比売命(ふたじひめのみこと)(父は近江安国造)が、御子稲依別王(いなよりわけのみこ)と共に住まわれていた神崎郡建部の郷(御名代の地)に尊の神霊を奉斎されたのが当社の草創であって、その後天武天皇白鳳4年(675年)、当時近江国府の所在地であった瀬田の地に迀祀し、近江一宮として崇め奉ったのが現在の当大社です。
歴朝の御尊信篤く、武門武将の崇敬枚挙にいとまなく、とくに源頼朝が平家に捕われ、14才にして伊豆に流されるため、京都から関東に下向の折、永暦元年(1160年)3月20日当社に参篭して前途を祈願した事が平治物語に記されています。遂に頼朝は源氏再興の宿願成って、建久元年(1190年)11月右大将として上洛の際、再び社前で祈願成就の神慮に対し、幾多の神宝と神領を寄進して奉賽の誠を尽くされたのです。
爾来当大社が出世開運、除災厄除、商売繁盛、縁結び、医薬醸造の神として広く崇敬される所以です。 -建部大社公式Webより

 
       
                  拝殿前の狛犬

       
  御神木「三本杉」             逆さ狛犬


 拝殿(入母屋造 間口三間二尺 奥行三間二尺 檜皮葺き)


 拝殿ない


 随垣に囲まれた本殿
 
                  本殿前の狛犬
 

拝殿は、本殿・権殿の共用ですが、随垣の前には、賽銭箱が別々に置かれ
本殿・権殿それぞれに拝礼できるようになっていました。


 本殿と権殿(一間社流造 間口一間一尺 奥行一間 檜皮葺き)

*公式Webに「権殿」とあるのでそのママ記したが、本来の「権殿」とは違うので???








                             つづく









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