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山里丸に入ると「刻印石広場」なる石垣の石が転がる場が。

刻印石広場
この広場は、大阪築城400年を記念し、その石垣を形成している刻印石を展示、紹介するため新設したものである。 刻印石とは、大阪城の石垣築城に参加を命ぜられた諸大名の家臣や石工らが、石集めや石積の過程で、個々の石に、必要に応じてさまざまな文字や文様を刻み込み、さらに出来上った石垣の表面に担当大名の家紋その他を刻み込んだもので、これまでに数万個も発見されている。ここに展示したものは、昔の石置き場、周辺の川筋などから出土したものや場内の石垣修理で撤去されたものなどである。一般に、大阪城の石垣は豊臣時代のものがそのまま残されていると思われがちであるが、実は、現存する石垣はすべて元和・寛永年間(1620~1629)に徳川幕府が西日本の64藩を動員して築かせたもので、無数の刻印石がその事実を証明している。 昭和58年10月 大阪市 -案内板より




山里丸
内堀に囲まれた大坂城本丸のうち、天守北側の一段低い区域を特に山里丸(山里曲輪[くるわ]と呼ぶ。豊臣時代には、山里の風情をかもし出す松林や、桜、藤などの木々がしげり、いくつもの茶室が建っていた。天正11年(1583)に大坂城の築城を開始した豊臣秀吉は翌年1月、天守完成よりも早く、ここで茶室完成の御披露目[おひろめ]を行っている。秀吉は、要人をもてなす場、家族のくつろぎの場として山里丸を利用し、没後は遺児秀頼により、父秀吉を祀{まつ]る豊国社[とよくにしゃ]も建てられた。慶長20年((=元和元年、1615)の大坂夏の陣では、秀頼とその母淀殿がこの地で自害したと伝える。
のち徳川幕府の手によって大坂城は全面的に築き直され、ここには一年交替で城を守衛する大名、山里加番[やまざとかばん]の主従が生活する小屋(公舎)が建てられた。
-案内板より

秀頼・淀殿ら自刃の地
慶長20年(1615年)の大阪の陣では、旧暦の5月8日、
徳川軍に追い詰められた豊臣秀頼とその母淀殿が、
山里丸にあった櫓にひそみ、自害したと多く記録が伝えられている。
それにちなんで平成9年(1997年)、現在の山里丸の一角に大阪市の手によりこの記念碑が建てられた。 -案内板より
慶長20年(1615年)5月8日、大阪城主豊臣秀頼とその母淀殿をはじめとする主従約30名は、落城直後の大坂城内で自刃した。
その場所については諸説あるが、ここ山里曲輪の一角にあった矢倉の中とする説が有力である。-「豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地」碑(裏)より
碑面には「豊臣秀頼 淀殿ら自刃の地」と刻まれており、豊臣秀頼とその母・
淀殿および臣下の武将や侍女たち30余名が、大坂夏の陣で自決した場所
だと記されていますが、実際は秀頼らの最期の場所の正確な位置はわか
りません。当時の記録でも、*山里曲輪の唐物倉*糒櫓*千畳敷大広間
*二の丸帯曲輪*千貫櫓*玉造の櫓*芦田曲輪などなど、諸説あります。
さらには、秀頼は薩摩や肥後に落ちのび、天寿を全うしたと記す文献もあり、
結局、複数の記述がある朱三櫓の近くに石碑を建立する事になったようです。
秀頼や淀殿と一緒にいた人たちは全員なくなってしまいましたので、
真相は闇の中です。

山里丸の虎口をぬけると、本丸と二の丸を繋ぐもう一つの橋・極楽橋です。

極楽橋は「石山本願寺」時代の古地図にもその名前が記載されています。

大阪城復興天守北面

北外堀と東外堀の間に設けられた「青屋門」を通り、車に戻りました。

日本100名城スタンプ
大阪城(54)

本日の旅泊地・草津SA
第10日目終了
本日の走行距離 147km
つづく
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