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多くの人で賑わう大阪城本丸です。

天守台石垣を見る為に近づくと、

「残念石」
両横に鎮座している
この石は元和6年(1620年)から始まる大阪城修復の時 天領小豆島(香川県)で割られたまま、用材石としての念願かなわず、いまなお数多く残されていることから「残念石」と呼ばれいる。
この大きな石は、筑前黒田長政の石切丁場でみつかり、小さな石は豊前細川忠興の手になるものである。
これらの石を、小豆島青年会議所が創立十周年記念事業として、「島は一つ」の社会活動の実践に、大阪青年会議所は商都大阪の復権を願い、「なにわの知恵」の再考にと、両会議所が共同事業として当時を再現し、小豆島頼子の地に運び据えたものである。
昭和五十六年七月十九日
(社)大阪青年会議所 (社)小豆島青年会議 -案内板より

登録有形文化財 大阪城天守閣
現在の天守閣は昭和6年(1931)、大阪市民多数の寄付金を元手とし、「大坂夏の陣図屏風」に描かれた豊臣時代の天守を参考に建設された。鉄骨鉄筋コンクリート造りで、本丸から最上階の鯱までの高さは約54.8メートル。古典建築を近代的な技術によって再現した、わが国の復興天守第1号である。初代の天守は、豊臣秀吉が大坂築城を開始して3年目となる天正13年(1585)に完成したが、慶長20年(1615)の大坂夏の陣で城もろとも焼失。二代目の天守は徳川幕府による再築工事の最中、寛永3年(1626)に現在の場所に築かれたが、寛文5年(1665)に落雷で焼失した。以来大坂城は天守のない城郭として幕末に至る。三代目となる現在の天守は、復興時から博物館施設として利用され、第2次世界大戦の空襲でも焼失をまぬがれた。平成9年(1997)には復興以降初めての改修工事が完了し、同年、歴史的景観に寄与する近代建築物として国の登録有形文化財となった。なお戦後の学術調査によって、豊臣時代の天守は現在地よりも東にあったことが判明しており、高さは約40メートル。配水池の地下付近から天守台石垣の一部が発見されている。
-案内板より


100名城のスタンプを貰う為に復興天守入場券売り場へ。
「スタンプは、復興天守の入り口にある。」
「入場料を払わないとスタンプはもらえない」
との事で、券を買い列に並びます。15分ほどアホ面して並んでいると、
関係者らしき人が来たので、「スタンプを貰うだけだが並ぶのか?」
「この列は、天守上部に上がる為のエレベーターの列なので、先にどうぞ」と。


行列の横を追い越していくと整理している係員が割り込みと勘違いしたらしく
咎められるが、理由を言って天守入口の案内所に辿り着きました。
(全100ヶ所のスタンプ設置場所中、大阪城最悪でした)

無事に100名城スタンプを押して外に出ました。
(コンクリートの外観復興天守だし並んでいるので内部には入る必要なし)

本丸北側の虎口を通り、

山里丸に向かいます。
つづく
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