近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら
織田信長が、11年かけて攻め続けた大坂(石山)本願寺は「足利季世記」に、
「摂州第一の名城なり」と記されています。
そんな大坂(石山)本願寺が建っていたとされる大阪城二の丸(南)から
いよいよ本丸へあがります。

桜門
桜門は二の丸から本丸に入るための門です。
秀吉時代、徳川幕府による再建時以降も桜門の名称で呼ばれておりました。

空堀(奥が桜門口土橋)
本丸を囲む内堀は、東から北、さらに西にかけて水堀になっているのに対し、南とそれに続く西にかけては水のない空堀となっている。ここは寛永元年(1624)、徳川幕府による大坂城再築工事の際に築かれたもので、当初から空堀であった。
これに先立つ豊臣秀吉築造の大坂城でも本丸の南は空堀となっており、大坂の陣で徳川方が埋めたわけでもない。なぜここだけ空堀としたのかは不明である。
-案内板より

重要文化財 桜門(さくらもん)
本丸の正面にあたる。徳川幕府による大坂城再築工事が行われていた寛永3年(1626年)に創建されたが、慶応4年(=明治元年、1868)に起きた明治維新の大火によって焼失し、明治20年(1887)に陸軍が再建し現在に至る。左右の塀も桜門再建にあわせて新築されたが、戦後に台風の被害を受けて倒壊し、昭和44年(1969)に復元されている。桜門の名所は豊臣秀吉が築いた大坂城以来のもので、当時二の丸に桜の馬場とよばれる場所があったことから、門付近に植えられた桜並木にちなんで命名されたと考えられている。ただし豊臣時代の大坂城は、徳川幕府再築の今の大坂城とは地形や構造が大きく異なり、桜門を含む本丸への入口は現在よりも西にあり、入る方向も違っていた。なお門の両脇に見える巨石は龍虎石【りゅうこいし】と呼ばれ、江戸時代には、雨が降ると右に龍の姿が、左に虎の姿がそれぞれ現れるといわれた。 -案内板より
桜門をくぐると、左手に井戸がありました。
(井戸もそうですが、左手の加工された天端石と土塀の狭間が興味深い)

銀明水井戸の井筒
この井筒は元来、本丸に建つ旧陸軍第四師団司令部【だいよんしだんしれいぶ】庁舎(旧大阪市立博物館)の裏手にある銀明水(銀水)井戸のものである。銀明水井戸は徳川幕府再築の大坂城本丸に設けられた5つの井戸のうちの一つで、本丸御殿【ほんまるごてん】台所の裏に位置し、本丸を警備する役人たちの飲料水として用いられた。大坂城内で最も格式の高い井戸の一つで、「金」「銀」などの井戸の名称に冠して重要性を表現した例は各地に見られる。昭和6年(1931)、大阪城天守閣の復興と同時に行われた第四師団司令部庁舎の新築にあたり、井筒と周囲の敷石が現在地に移され、飲料用の水道水が引かれた。なお現在の金明水は小天守台上にあるが、これは元来「黄金水」と呼ばれたもので、金明水井戸はこれとは別に本丸内にあった。今の配水池に埋もれていて目にすることができない。 -案内板より


ここ桜門の枡形虎口も大手門と同様に大きいです。

桜門枡形の巨石
桜門の内側には、本丸の正面入口を守るため、石垣で四角く囲まれた「枡形」とよばれる区画が設けられ、上部に多聞櫓【たもんやぐら】が建てられた。この枡形は、徳川幕府による大坂城再築工事の第2期工事が始まった寛永元年(1624)、備前岡山藩主池田忠雄【いけだただお】の担当によって築かれ、石材は備前(岡山県)産の花崗岩【かこうがん】が用いられている。正面の石は蛸石【たこいし】とよばれる城内第1位の巨石で、表面積がおよそ36畳敷(59.43平方メートル)、重量は約108トンと推定される。向かって左手の巨石は振袖石【ふりそでいし】(袖石【そでいし】)とよばれ、表面積はおよそ33畳敷(53.85平方メートル)で、城内第3位である。なお、上部の多聞櫓は慶応4年(=明治元年、1868)、明治維新の大火で焼失した。 -案内板より

本当に凄い人です。また多くが外国人の様です。

本丸跡に建つ旧陸軍第4師団司令部庁舎(昭和六年(1931)竣工)

豊臣期大阪城の図
1585年(天正13年)に完成したとされる豊臣秀吉が築いた天守(高さは天守台石垣を含んで約39m)は、1614年(慶長19年)の「大坂冬の陣」、さらに4か月後の1615年(慶長20年)に起こった「大坂夏の陣」で炎上し灰燼に帰した。現在の大阪城天守閣の脇にある貯水池の地下が天守のあった場所。なお天守は当初、最上層のみ黒だったが、1596年(慶長元年)に起きた慶長の大地震で城が損傷し、それを修繕した際にすべて黒に変更したと推定される。 -攻城団Webより

徳川期大阪城の図
元和期天守は、江戸城の本丸・初代天守の配置関係と同じような配置で建てられたと見られています。
大天守台の南側に小天守台が設けられていますが、そこに小天守は造られず天守曲輪のような状態で、天守へは本丸御殿から二階廊下を通って入るようになっていました。
なおこの二階廊下は現在のエレベータの位置に架けられていたそうです。
建物は独立式層塔型5重6階(地上5階、地下1階)で、江戸城の初代天守を細身にしたような外観となっています。
壁面は白漆喰塗籠だったとみられており、最上重屋根は銅瓦(銅板で造られた本瓦型の金属瓦)葺で、その他の屋根は本瓦葺だったと考えられています。
天守の高さは天守台を含めて58.32メートルで、外観が酷似していることなどから江戸城初代天守の縮小移築との説もあります。 -攻城団Webより

大坂夏の陣図屏風(大阪城天守閣蔵)
これは、夏の陣に参戦した黒田長政が戦の様子を描かせたもので、
現在のところ、最も正確な描写と考えられています。
豊臣大坂城(輪郭式平城)
複合式望楼型天守(5重6階、地下2階・高さ約30m+石垣約9m)
つづく
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