~西へ~(82)10日目⑥ 日本100名城 大阪城Ⅱ | どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

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日本一周・全県に足跡を目標に、車中泊やキャンプをしながら、
大好きなラーメンを食べ、100名城を中心にした城めぐりや
神社仏閣に参拝し御朱印を頂く、旅の絵(写真)日記です。

 
                    近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら


豊臣秀吉が、約15年かけて築いた大坂城(豊臣氏大坂城)の遺構は、
現在全て埋没しており、現在地表に見ることのできる遺構は、徳川氏が
豊臣氏築造のものに高さ数メートルの盛り土をして縄張を改め、元和六年
(1620)から約9年かけて再建した大坂城(徳川氏大坂城)の遺構です。



さすが、大観光地にある城址。凄い人です。


 千貫櫓と大手二の門(渡櫓門)

 重要文化財 千貫櫓(せんがんやぐら)
大阪城の大手口【おおてぐち】を守る重要な隅櫓【すみやぐら】である。西側と南側は堀に面し、大手門に向かう敵を側面から攻撃することができた。創建は徳川幕府による大坂城再築工事が開始された元和6年(1620)で、戦後の解体修理工事の際、墨書で「元和六年九月十三日御柱立つ」と上棟式の日を記した部材が見つかった。二の丸北西に現存する乾櫓【いぬいやぐら】と同様に大阪城最古の建造物で、いずれも工事責任者は、茶人としても有名な小堀遠州【こぼりえんしゅう】である。具体的な場所や規模は不明ながら、前身となる豊臣秀吉築造の大坂城にも千貫櫓はあり、さらにそれよりも前、織田信長が大坂を領していたころにも千貫櫓はあった。名称の由来に関しては、織田信長がこの地にあった大坂(石山)本願寺を攻めた際、一つの隅櫓からの横矢に悩まされ、「千貫文の銭を出しても奪い取りたい櫓だ」と兵士たちの間で噂されたという逸話が残っている。面積は1階が約217.26平方メートル、2階が約162.95平方メートル、高さは約13.5メートルである。 -案内板より


 重要文化財 大手門(大手一の門)
城の正面を大手(追手【おって】)といい、その入口を大手口(追手口)、設けられた門を大手門(追手門)とよぶ。現存する大阪城の大手門は寛永5年(1628)、徳川幕府による大坂城再築工事のさいに創建された。正面左右の親柱【おやばしら】の間に屋根を乗せ、親柱それぞれの背後に立つ控柱【ひかえばしら】との間にも屋根を乗せた高麗門【こうらいもん】形式である。屋根は本瓦葺【ほんがわらぶき】で、扉や親柱を黒塗総鉄板張【くろぬりそうてついたばり】とする。開口部の幅は約5.5メートル、高さは約7.1メートル。親柱・控柱の下部はその後の腐食により根継【ねつぎ】がほどこされているが、中でも正面右側の控柱の継手【つぎて】は、一見不可能にしか見えない技法が駆使されている。門の左右に接続する大手門北方塀・大手門南方塀も重要文化財に指定されている。 -案内板より




大手一の門(高麗門)をくぐって左側が、二の門(櫓門)。
およそ40m×50mの広さの枡形虎口となってます。


 市多聞跡(いちたもんあと)
江戸時代、大坂城の大手口枡形には、現存する多聞櫓のほか、南側に東西13間5尺、南北3間の独立した多聞櫓が建っていた。大手口枡形内には定期的に商人の入場が許可され、この櫓の中で、一年交替で城に詰めた旗本(大番衆)が日用品を調達するための市が開かれたことから、市多聞という名がついた。明治維新の大火によって焼失し、現在は礎石のみが残る。大手門から南にのびて東に折れる塀のうち市多聞跡と重なる部分は、市多聞焼失後に築かれたものである。 -案内板より


 大手口枡形(おおてぐちますがた)の巨石(きょせき)
枡形とは城の主要な出入口に設けられた四角い区画のことで、敵の侵入を食い止める役割を果たした。築城技術の進歩にともなって強固な石垣造りのものがあらわれ、大阪城の大手口枡形では城の威容を誇示する巨石が数多く使用されている。大手門をくぐって正面に位置する大手見附石【おおてみつけいし】は、表面積が約29畳敷(47.98平方メートル)で城内第4位、左の大手二番石【おおてにばんいし】は約23畳敷(37.90平方メートル)で第5位、右の大手三番石【おおてさんばんいし】は約22畳敷(35.82平方メートル)で第8位、いずれも採石地は瀬戸内海の小豆島【しょうどしま】と推定されている。現存する大阪城の遺構は豊臣時代のものではなく、元和6年(1620)から約10年にわたった徳川幕府再築工事によるもので、石垣は将軍の命令を受けた諸大名が分担して築いた。この個所は当初肥後熊本藩主加藤忠宏【かとうただひろ】が築き、のちに筑後久留米藩主有馬豊氏【ありまとようじ】が改築した。 -案内板より



 重要文化財 多聞櫓(たもんやぐら)(大手二の門)
大手口枡形【ますがた】の石垣の上に建つ櫓で、大門【おおもん】の上をまたぐ渡櫓【わたりやぐら】と、その右側に直角に折れて接続する続櫓【つづきやぐら】によって構成される。徳川幕府による大坂城再築工事により寛永5年(1628)に創建されたが、天明3年(1783)の落雷によって全焼し、嘉永元年(1848)に再建された。土塁や石垣上に築かれた長屋状の建物を一般に多聞(多門)と呼ぶが、その名称は戦国時代の武将松永久秀【まつながひさひで】が大和国(今の奈良県)の多聞城でこうした形式の櫓を初めて築いたことに由来するといわれる。現存する多聞櫓の中でもこの多聞櫓は最大規模で、高さは約14.7メートル、建築総面積は約710.25平方メートルある。渡櫓内部には70畳敷を最大とする部屋が4室、続櫓内部には廊下のほか9畳・12畳・15畳の部屋が計6室あって多数の兵や武器をたくわえることができ、枡形の内側に多くの窓があり、また大門をくぐる敵を真上から攻撃する「槍落し」の装置が設けられるなど、高い防御能力を備えている。大阪城の二の丸には京橋口・玉造口にも多聞櫓があったが、現存するのはここだけである。 -案内板より


 内側から見た大手二の門


大手二の門をぬけると左手に「千貫櫓」が見えます。
その千貫櫓が建つ、西の丸へ。



西の丸は、千貫櫓から東に延びる塀で区切られております。


 西の丸庭園
古く豊臣時代の西の丸には多くの御殿が建ち並び、 秀吉没後、慶長4(1599)年には秀吉の正室「北の政所」 が一時住み、その後、慶長5(1600)年の関ヶ原合戦まで、 徳川家康が移り住んだことが知られています。
徳川時代に入り、元和5(1619)年、内藤信正が初代の 「大坂城代」となり、翌元和6(1620)年すっかり築き直しました。
その後、明治維新まで、70代の城代が交代で城の管理にあたりました。
明治以降は軍用施設として使用されていましたが、 徳川時代の「西の丸」跡地と、その南側に続いていた「城代屋敷」 跡地などを1つにまとめ、昭和40(1965)年西の丸庭園として開園しました。 -案内板より


 
 千貫櫓(元和六年(1620)上棟)から見た大手道土橋



 西ノ丸から見た天守(1931年SRC造復興)




                             つづく







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