近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら
本願寺大坂御坊を織田信長が追い出し、放置されたままだった本願寺
石山御坊跡に、信長が倒された後の清洲会議で摂津国を与えられた
池田恒興が入城するが、すぐに国替えとなり、秀吉によって領有。
本格的な築城が開始された大阪城にやってきました。
大阪城公園の東側に車を停め、登城開始です。

東外堀を右手に見ながら西に進むと南外堀に突き当たります。

正面に二の丸南側に建つ「一番櫓(現存)」、
右手には二の丸に通じる「玉造口門」です。

南外堀の向う側、二の丸南側には一番櫓から七番櫓まで、
7基の隅櫓が建てられていました。


南外堀(みなみそとぼり)
大阪城二の丸の南に位置する堀で、西が大手口、東が玉造口である。石垣の総延長は約2キロメートル、堀の最大幅は約75メートルあり、寛永5年(1628)、徳川幕府による大坂城再築第3期工事により、豊臣時代大坂城の堀跡に改めて石垣が築造された。幕府の命令によって動員された大名は肥前佐賀藩鍋島家・加賀金沢藩前田家・因幡鳥取藩池田家・筑前福岡藩黒田家など57家。内側の石垣上には東から一番櫓から七番櫓まで七棟の隅櫓が建造された。櫓は明治維新の大火により四番・五番・七番を失い、さらに第二次大戦の空襲により二番・三番を失って、現在は一番櫓と六番櫓だけが残る。 -案内板より

ある意味、大阪城址一番の見どころです。

六番櫓(現存)


大阪城南外堀の石垣にある「謎の穴」
六番櫓の斜め下の石垣に一箇所、石が外れたような穴が空いています。
約90㎝四方ほどあり、大人ひとりがかがんで入れるほどの大きさだそうです。
穴は石垣の上端から15mほど下方にあり、さらに、水面までは8mばかりあります。
中は2mほど入ったところで崩れて行き止まりになっていますが、木の柱が立てて
あり、人工的に掘られたものには違いなさそうです。
石垣が積まれたときからあるものではなく、後世にわざわざ周囲をくり抜き、
積み石一個を取り除いて空けたもののようです。


生国魂(いくくにたま)神社お旅所跡
生国魂神社と大阪城
生国魂神社の歴史を文献史料でたどると、「日本書紀」孝徳天皇即位前記
(645)に「生国魂社の樹を散(き)りたまふーーー」とあるのが初出
であり、これは難波宮造営のためと考えられている。 また「天文日記」
(1436~54)の記載からも、大坂(石山)本願寺に接して生国魂神社
のあったことがわかる。 難波宮や大坂本願寺はここ大阪城の近くにあった
ことが知られており、生国魂神社が古くよりこの辺りに祀られていたこと
がわかる。
その後豊臣秀吉は、大坂城の築城に際して天王寺区生玉町の現在地に移築
した。 当時大坂城大手門は、生玉門と呼ばれたという。
この「お旅所」は昭和7年(1932)に新築されたものであり、夏祭の
渡御祭に用いられた。 大阪市教育委員会 -案内板より

やっとこ、大手口が見えてきました。
つづく
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