近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら
日本三名城のひとつ大阪城、西ノ丸を散策してます。

芝生広場の先に美しい日本建築が建っていたので行ってみました。


大阪城西の丸庭園 大阪迎賓館
ここ大阪迎賓館は、二条城・二の丸御殿の白書院をモデルにした、純和風建築で、国際会議の「APEC」(1995)の会場として使用されたようで、現在は、予約制レストラン になってました。

重要文化財 乾櫓(いぬいやぐら)
乾(戌亥) は西北をあらわす言葉で、西の丸の西北に位置することからこの名がついている。 大手口 【おおてぐち】 から京橋口 【きょうばしぐち】 までの広い範囲を見渡す重要な地点にあり、また、堀をへだてた城の外側の南・西・北のどの方角からも望めたことから「三方正面の櫓」 とも呼ばれた。 戦後の解体修理の際、「元和六年甲 【申】 ノ九月吉日 ふかくさ 作十郎」 とへら書きされた瓦が検出され、創建が元和6年(1620) であることがわかった。すなわち乾櫓は千貫櫓 【せんがんやぐら】 と同じく、徳川幕府による大坂城再築工事が開始された年に築かれた、大阪城に残る最も古い建造物である。 高さは約10.3メートルで2層2階建て、面積は1階の石落し部分をのぞくと各階とも約186.23平方メートルで、L字形の総2階造りという非常に珍しい構造をもつ。 この時期築かれた櫓の工事責任者は、茶人としても有名な小堀遠州 【こぼりえんしゅう】 である。 -案内板より

重要文化財 焔硝蔵(えんしょうぐら)
徳川幕府が、鉄砲や大砲に使用する焔硝(火薬) を保管した蔵で、現在の焔硝蔵は貞享2年(1685)に建造されたもの。 焔硝蔵は以前にも城内数か所にあったが、青屋口にあった土蔵造りの焔硝蔵は万治3年(1660)に落雷を受けて大爆発を起こし、また別の場所にあった半地下式の焔硝も部材の腐食により建て直しがたびたびなされるなど、幕府は焔硝の有効な保管方法に苦慮していた。 そうした課題を克服すべく、この焔硝蔵では耐火・耐久・防水に特に工夫がこらされ、床・壁・天上・梁 【はり】 をすべて花崗岩 【かこうがん】 とし、石壁の厚さは約2.4メートル、屋根の下は土で固めてられている。 面積は約171.9平方メートル、高さは約5.4メートルで、こうした石造りの火薬庫はわが国では他に例がない。 徳川時代の大坂城には、西日本における幕府の軍事拠点として、焔硝のほかにも大量の兵糧や武器武具が備蓄されていた。 -案内板より


西の丸の北東角に建つ高麗門は閉ざされていました。

天守を左手に見て内堀沿いを戻ります。



大坂城本丸の配水池管
大坂の街は、上町台地の西側に形成された淀川と大和川の三角州の上に発達してきました。だから、地下水は塩分が多くて飲用には適さなかったのです。
事情は江戸も同様でしたが、江戸は解決策として上水道を張り巡らせました。
それに対し、大坂では下水を発達させたものの、上水道は20世紀に至るまで完備されることはなかったのです。
では、大坂では飲み水はどうやって手に入れたのでしょう。上町台地にはいくつか良質の井戸が湧いていますが、船場や島之内などの低地では、水売りが源八橋付近の大川で汲んだ水を売り歩いていたそうです。
それでも、近代都市として発展していくには上水道の整備は避けられません。そこで、1895(明治28)年、大阪で一番高い大坂城本丸に設置されたタンクに、桜宮からポンプで大川の水を汲み上げ、市内に落差を利用して配水しました。


本丸西側の空堀に大きなパイプが横切っていますが、これを通して大阪市内に水を供給するのです。もちろん、今も現役です。-地元大阪人がガイドする素顔の大阪城より

南仕切門跡(みなみしきりもんあと)・太鼓櫓跡(たいこやぐらあと)
二の丸の西と南の区域は石垣によって仕切られ、通路にあたるこの個所に建っていたのが南仕切門である。また門の西側石垣の上には太鼓櫓とよばれる二層の櫓があり、ともに徳川幕府による大坂城再築工事の最終段階にあたる寛永5年(1628)に創建されたと考えられる。太鼓櫓は城内の櫓のうち最も小規模で、中に太鼓が納められていた。ここには太鼓坊主とよばれる僧形【そうぎょう】の役人が交替で詰め、彼らは香【こう】をたいて時刻を計り、城内勤務の大名や旗本以下の招集や交替、あるいは緊急時に太鼓を打ち鳴らした。いずれの建物も慶応4年(=明治元年、1868)、明治維新の大火によって焼失した。 -案内板より
つづく
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