~西へ~(76)9日目⑫ 壺井八幡宮Ⅱ・めし・旅泊地 | どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

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「野宿でもお腹に肉のつく身哉」

日本一周・全県に足跡を目標に、車中泊やキャンプをしながら、
大好きなラーメンを食べ、100名城を中心にした城めぐりや
神社仏閣に参拝し御朱印を頂く、旅の絵(写真)日記です。

 
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 府指定史跡 壺井八幡宮境内 (昭和五十二年三月三十一日指定)
この台地は千二十年に源頼信が河内守に赴任直後、河内源氏の本拠と定めた香炉峯の一角に当るが、その後千六十四年、前九年の役を平定した源頼義が石清水の神を勧請し、守護神として創建したのが始まりである。
現八幡宮及び権現社は元禄期に綱吉の命で再建されたものを平成に復原修理されたものです。
 平成二十一年三月 大阪府教育委員会  羽曳野市教育委員会 -案内板より




八幡宮の西側に鎮座します壷井神社(壺井権現)は、義家の五男の
源(石川)義時が天仁二年(1109)に頼信・頼義・義家(河内源氏三代)
の霊をお祀りしたことに始まります。



 河内源氏3代
鎌倉幕府の創始者源頼朝が、八幡太郎源義家公の4代の孫であり、室町将軍家・足利も義家公の流れであり、さらに徳川将軍家も義家公末孫を称したことはよく知られています。

源 頼信
寛仁4年(1020)壺井に館を構えた頼信公は、関東で起こった平忠常の乱を平定することにより、武将としての名を高めました。後、河内守に任ぜられた頼信公は、誉田山稜(応神天皇陵)に参拝、告文を奉っています。この中で、自分の祖先を応神天皇とし、先の忠常の乱において、一平兵も動かさずして平定することができたのも八幡大菩薩のお陰と、感謝の言葉を述べられています。
この平忠常の乱の平定には、はじめ相模守であった平直方が追討使を命ぜられましたが、成功せず、続いて頼信公に勅命が下ったのです。この戦に従軍した頼信公の嫡子・頼義公の姿を見た直方は、自分の娘を嫁がせ、生まれたのが義家公です。直方は娘を嫁がせるにあたり相模国鎌倉を持参金とします。以後、鎌倉は、河内源氏相伝の地となったのです。

源 頼義
平忠常の乱から20年、奥州において「前九年の役」、「奥州合戦」あるいは「12年合戦」などと呼ばれる戦乱が起こりました。安倍頼良・貞任・宗任父子の反乱です。この前九年の役を鎮守府将軍・陸奥守として平定したのが頼義公です。
頼義公がこの前九年の役を平定することにより、河内源氏の勢力は奥州にまで伸び、関東武士たちに対する支配力は、一層強固なものとなったのです。この頼義公の嫡子が「天下第一武勇之士」とか「武士の長者」(中右記)と評された八幡太郎源義家公です。

源 義家
義家公が、武士の棟梁としての地位を確固たるものにしたのは、後三年の役であります。後三年の役は、前九年の役の勝者清原氏一族の内部争いに端を発したものです。義家公が鎮守府将軍・陸奥守に任じられた兵を動かす結果となりました。 
 しかし、この戦は、清原氏が国家権力に反抗して起こったものではなく、清原氏一族内での内訌であったため、朝廷は、追討の官符を与えず、私的戦闘と見なされたのです。ここには、河内源氏の政界進出を抑えようとする白河天皇を中心とする朝廷の姿が見られます。       
こうした点で、後三年の役は、政治的には義家公の大きな失敗であったと言わざるを得ませんが、義家公と関東武士団との関係においては、一段と大きな発展が見られ、武士の棟梁としての地位を得たのです。また、名将として神格化され、その庇護のもと献身的な奉公をする武士団との間の私的主従関係が強化されたのです。  
その結果、義家公の勇猛ぶり・知将ぶりを賞賛し、思いやる恩情深い武将であることを強調した説話が数多く生まれました。例えば、『奥州後三年記』には、義家公が軍士を労わった話、剛臆の座を定めた話、斜雁の列の乱れを見て伏兵を知る話、金沢柵の陥落を予知する話などがあり、また、白河上皇が「物の怪」に悩まされた折、黒塗りの弓矢一張をすすめ、それを上皇が枕上に立てられたところその後は「物の怪」に襲われなかった話、堀河上皇がご病気の折、義家公が甲冑をつけ弓箭を帯して参内し、弓の弦を三度鳴らしたら、天皇のご病気は平癒されたという話があり、これらは義家公の超人的霊力を示すものであります。
また、義家公が武勇にすぐれただけでなく、学問にも通じていたことを示すものとしては、『古今著聞集』に大江匡房に兵法を学んだ話、衣川にて安倍貞任との連歌の話などがあり、『千載和歌集』には次の和歌が載せられています。 
-壺井八幡宮公式Webより


 

 御祭神:源頼信公・源頼義公・源義家公
天仁2年(1109)正月3日の夜、義家公の5男左兵衛尉義時公が、父祖三将軍の夢のお告げに「吾等三者の霊を祭祀すべし。然らば、王城を鎮護し、永く源家の守護神たたらん。」とありしにより、八幡宮西方に地を選んで社殿を造営、同年8月18日竣工、三将軍の荒御霊を奉斎し、壺井宮と称し、河内源氏の崇廟とした。
即ち、世にいう源氏三社(京都・六孫王社、摂津・多田社、河内・壺井宮)の一つである。 
-壺井八幡宮公式Webより
               

 


清和源氏の一流、河内源氏の発祥の地に来て、鶴岡八幡宮の元宮でもある
「壺井八幡宮」河内源氏三代をお祀りする「壺井権現」に参拝出来ました。
ありがたいことです。


  
  河内源氏発祥之地
  壺井八幡宮 御朱印



今日は、メシも食わずにガッツリと周ってきました。旅泊地へGо



本日の旅泊地・香芝SAに到着。
腹ペコでしたので、フードコートへ。


 ヤマトポーク トンテキ定食

東名高速などのSAフードコートは、少しづつだが、まともなモノが、
出てきているが、ここは、まだまだでした。




第9日目終了

本日の走行距離 118km



                             つづく







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