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最古の八幡宮「誉田八幡宮」にやってきました。


誉田御廟山古墳(応神天皇陵)の直ぐ南に鎮座しております。
応神天皇陵参拝の拙ブログは、→こちら


河内ふるさとのみち
誉田八幡宮(こんだはちまんぐう)
誉田別命を祭神とし、永享五年(1433)につくられた『誉田宗庿(廟)縁起』には、欽明天皇が命じて応神陵の前に営んだ社を後冷泉天皇の頃(1045~68)になって、南へ1町(約109m)離れた現在の場所に造り替えたことが伝えられている。
鎌倉時代から室町時代にかけては、源氏の氏神である八幡社を祀る社として幕府の保護を受けて大いに興隆したが、戦国期にはたびたび戦場となって兵火にかかることもあった。その後、豊臣氏からの社領の寄進や江戸幕府の庇護のもとに、社殿の再建と整備が進められた。 『河内名所図会』や天保9年(1838)の『河内国誉田八幡根本社内之図』を見ると、本社や摂社、宮寺の塔頭など、多くの建物が並び、参詣の人々で賑わうようすがしのばれる。
源頼朝の寄進と伝えられる神輿や、丸山古墳で出土した鞍金具などの国宝,重要文化財の『誉田宗庿縁起』や『神宮皇后縁起』など多数の貴重な文化財が社宝となっている。 -案内板より

鳥居をくぐり、歩を進めると何か他の神社とは違う感覚、
少し違いますが「禅寺」に来たような空気を感じました。



拝殿


右近の橘 左近の櫻




誉田八幡宮拝殿
東面する入母屋本瓦葺で、間口11間、奥行き3間の細長い木造建築で、いわゆる割拝殿の形式であって正面中央部を拝所とし向拝(ごはい)部分は唐破風造りで蛇腹天井となっている。
この建物は慶長11年(1606)に豊臣秀頼が普請奉行に片桐旦元を任じて再建させたものであるが、完成直前に大阪の役(冬の陣,夏の陣)が勃発したため八割方でき上がったまま放置されていた。その後、徳川家光が再建工事を続行して寛永年間の初期に竣工したものと考えられている。
この拝殿は,天井が張られていないので木組のありさまが観察できる。
徳川家によって最後の仕上げがなされたので、三つ葉葵の定紋が付けられている。 -案内板より

中門、随垣に囲まれた本殿


誉田林古戦場跡
誉田八幡宮の付近は、南北朝から室町戦国の各時代を経て、江戸初期の元和年間にかけて戦略上の要地であったため再三古戦場の舞台となったところである。
すなわち、南北朝初期の正平年間には,北朝方の細川兄弟の軍と楠木正行の間で合戦が行われ、室町時代の享徳年間には畠山政長と義就の間で再三にわたり誉田合戦が行われた。少し降って、永正元年(1504)には、前期の孫にあたる畠山稙長(タネナガ)と義英との間で合戦のあとで和議となり、誉田八幡宮「社前の盟約」が結ばれたのもこの境内であった。
大阪夏の陣の折には、大阪方の武将薄田隼人正もこの境内に大陣を置きこの地より出撃して道明寺近辺で、討ち死をとげたのである。 -案内板より
つづく
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