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大阪護國神社から「摂津国一宮 住吉大社」にやってきました。


式内社(名神大社)、旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。

全国に約2,300社ある住吉神社の総本社であります。


住吉の神 筒男三神は、お祓いの神・航海安全の神・武の神
・農耕の神・和歌の神として信仰されています。


神代での言い伝えでは、
伊邪那岐命 (いざなぎのみこと) は、火神の出産で亡くなられた妻・
伊邪那美命 (いざなみのみこと) を追い求め、黄泉の国(死者の世界)に
行きますが、妻を連れて戻ってくるという望みを達することができず、
逆にケガレを受けてしまいます。そのケガレを清めるために海に入って
禊祓いしたとき、住吉大神である底筒男命 (そこつつのおのみこと) 、
中筒男命 (なかつつのおのみこと) 、表筒男命 (うわつつのおのみこと)
総称・筒男三神(住吉三神)が生まれたとされます。

神功皇后摂政前紀によれば、住吉三神(筒男三神)は神功皇后の新羅
征討において皇后に託宣を下し、その征討を成功に導いたとされ、その後
皇后が大和への帰還中に麛坂皇子・忍熊皇子の反乱に遭い、難波へ向か
うも船が進まなくなると、住吉三神(筒男三神)が三神の和魂を
「大津の渟中倉の長峡(現 住吉大社の地)」で祀るように託宣を下した為、
皇后が教えのままに鎮祭すると、無事海を渡れるようになったという。

江戸期までは境内馬場は海に面しており、白砂青松の風光明媚の代表地
とされ「住吉模様」と呼ばれました。紫式部「源氏物語」にも重要な舞
台として描かれており、また昔話「一寸法師」では子宝に恵まれなかった
初老の夫婦が住吉大社に参り、子供を授かり、その子供が住吉津から細江
川を下って大阪湾に出て、淀川をのぼり京都へ向う話とされています。

清和源氏武士団を最初に形成した源満仲は、摂津守であった天禄元年
(970)住吉大社に参籠し、住吉大神の神託により摂津国多田を源氏の
本拠地としています。この時の出来事が「三ツ矢サイダー」の名前の
由来にもなっています。
【満仲が朝廷から摂津を拝領。住吉大社(大阪)に参拝し、自分の城を建てる場所を尋ねたところ、「射った矢の落ちたところに造ればよい」のお告げがあった。満仲は白羽の鏑矢を一本放ち、郎党たちが矢を探したところ、多田沼に住む「九頭の竜」の頭に命中し、竜は悶死していた。満仲は鏑矢を見つけた郎党の孫八郎に、「満仲の矢(満矢)」にちなみ、「三ツ矢」の姓を与え、重臣に取り立てたという。】
-「なぜ三ツ矢サイダーは生き残れたのか」立石勝規/著より
宮司の津守氏は神官であると共に一族は武士も輩出しており、源満仲の
三男で河内国壺井を本拠地とした源頼信を祖とする河内源氏とは婚族の
関係にあり、河内源氏の後裔で鎌倉幕府を開いた源頼朝が建久六年(1195)
三月の上洛の際は、住吉大社にて多数の御家人を集め流鏑馬を行ってます。
元寇の際には、社前の住吉の浜(住之江の浜)において海神の住吉大神に
蒙古撃退の「浜祈祷」が行われております。

では、「住吉大神」(筒男三神・神功皇后)に拝します。
つづく
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