~西へ~(66)9日目② 和泉国一宮 大鳥神社 | どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

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日本一周・全県に足跡を目標に、車中泊やキャンプをしながら、
大好きなラーメンを食べ、100名城を中心にした城めぐりや
神社仏閣に参拝し御朱印を頂く、旅の絵(写真)日記です。

 
                    近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら





和泉国の総社に続き、一之宮である「大鳥神社」にやってきました。

    

式内社(名神大社)。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
全国の大鳥神社および大鳥信仰の総本社とされれてます。

       

日本武尊をご祭神とするため武家の崇敬厚く、平治元年(1159年)には
熊野参詣に向かう途上の平清盛・平重盛らが立ち寄り、清盛は、
「かひこぞよ けへりはてなば飛びかけり はぐくみたてよ大鳥の神」
と詠みました。その後も、織田信長は所領1300石を安堵し、大坂の役で、
灰燼に帰しますが、寛文2年(1662年)に幕命により再建されました。

    
  大鳥大社由緒 (左)
祭神 日本武尊
   大鳥連祖神
例祭 8月13日
御増祀記念大祭 3月15日
 当社はその起源古く古来大鳥大明神と称せられ延喜式名神大社であり和泉国一の宮である。
 日本武尊は景行天皇の皇子にして勅を奉じ熊襲並に東国を平定、帰途伊吹山の賊を平げたとき病を得て伊勢国熊褒野に薨じ給うたが御屍は白鳥と化し御陵を出で大和国琴引原、次に河内国古市にとび最後に此の地に留り坐したので社を創建、之が当社の起源と伝える。
 又、大鳥連祖神は大中臣と元を一にし祖先は天の岩戸開きに功を立てた天児屋根命である。
 聖武天皇の御世には僧行基が勅願により神宮寺としてこの地に勧学院神鳳寺を建立したが明治の神仏分離により廃寺となり当社は明治4年5月官幣大社に列格。
 社殿は大鳥造と称して神社建築史上貴重な様式を今に伝えている。 -案内板より


大鳥大社 (右)
 御祭神は、日本武尊と大鳥連祖神の二柱であり、和泉国一の宮にあたる延喜式内社です。同じく式内社の大鳥北浜神社・大鳥美波比神社・大鳥井瀬神社・大鳥羽衣浜神社と併せて、大鳥五社神社と呼んでいます。
 本殿は、神社建築史上、大社造につぐ古い様式で大鳥造と呼ばれている切妻造の妻入り神社建築ですが、明治38年に焼失し、同42年に造営されたものです。
 神域は千種森といわれ、樹木が密生しています。白鳥が舞い降りた際、一夜にして樹木が生い茂ったという伝説もあります。
 平清盛・重盛父子も、平治元年(1159)熊野参詣の途中当社に参拝し、清盛は「かひこぞよ けへりはてなば飛びかけり はぐくみたてよ大鳥の神」と詠み、のちに、富岡鉄斎(当社大宮司)の筆による石碑が建てられました。境内には、与謝野晶子歌碑もあります。  -案内板より



八角鳥居



 拝殿


 拝殿ない


 神門と随垣


 本殿 大鳥造平入桧皮葺素木造
(大鳥造は、大社造と住吉造の中間に位置する建築様式)

 
 ご祭神:天照大神(菅原道真、押別命を配祀)
式内社。大鳥五社の一社。明治12年(1879年)に境内に遷座し、明治42年(1909年)に式内社押別神社・菅原神社4社を合祀しました。

 大鳥美波比神社 拝殿

    
     稲荷神社

   
  祭神 日本武尊御神像            神馬像
日本武尊は西征して熊襲を平定し、東征して東国を平定しましたが、伊吹山で病に倒れ、伊勢国能褒野で薨去されます。ご遺体はその地に葬られましたが、その陵墓から魂が白鳥となって飛んでいき、大和国琴引原で留まり、また飛び立って河内国古市に降りたが、最後に大鳥の地に舞い降りたので、社を建ててお祀りしました。これが大鳥神社の始まりだとされます。神域は千種森(ちぐさのもり)と呼ばれ、白鳥が舞い降りた際、一夜にして樹木が生い茂ったと伝わります。


     
       和泉国一之宮 大鳥神社
           御朱印


駐車場が分かりにくく、鳥居の所で若いお兄ちゃんにお聞きすると、
丁寧に教えてくれました。ありがとうございました。





                             つづく







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