近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら
9日目の朝、雲の様子を見ると、行く先は晴れていそうです。


本日最初に訪れたのは「泉井上神社」です。こちらには、
境内社として、和泉国総社 五社総社が鎮座しております。


当神社は井八神社・井戸ノ森八幡宮と称されることもあり、国土守護神又殖産興業の神として御神徳を示す。
神功皇后・仲哀天皇・応神天皇のほか、神功皇后にしたがって朝鮮にわたった神々四十五座を加えた計四十八座を祭神とし、その神像四十八躯を蔵す。
境内の清水は神功皇后渡韓の途次、一夜にして湧出したので霊泉と名づけられ、国名の源となる。
のち王子神社・八幡神社・菅原神社・式内社和泉神社が合祀されていまにいたっているが、特に和泉国衙内の神社であるところから和泉の総社(大鳥・穴師・聖・積川・日根の五社合祀)が勧請されて国司以下宮人の崇敬をあつめていた。
総社本殿は慶長十年(西暦1605)豊臣秀頼が建立したもので重要文化財に指定されている。 -案内板より


まずは、
独化天神(天之御中主神・高産巣日神・神産巣日神) - 主祭神
仲哀天皇
神功皇后
応神天皇
他、三韓征伐武勲従者45柱
をお祀りする泉井上神社にお参りしました。

泉井上神社 拝殿
縁起
上古より鎮座なされ万物創造の神である独化天神は天之御中主神、高産巣日神、神産巣日神ともいい生命の守り神、招福の神として信仰されました。
神武天皇はご東征をお祈りになり、神功皇后は仲哀天皇の御即位2年(200年)4月に行啓なさった時に急に泉ができ清い水がこんこんと湧き出したので瑞祥として喜ばれ、この水を霊泉といい、宮としておまっりなさいました。これより「和泉」の国名がつけられました。元正天皇の霊亀2年(716年)ここに和泉監を置き、この土地が国府となり、地方政治の中心地となりました。
その傍に総社を建立し、大鳥、穴師、聖、積川、日根野の神をおまつりし、御諸別命とも合わせおまつりされています。和泉大社、和泉総社と呼ばれ泉州全体の氏神として崇敬され、一般の人々の信仰も厚くしばしば神異があり、その都度、勅使の奉幣がありました。` ご社領は霊亀元年和泉諸上勅命により珍努県主倭麿の領主を世襲し、数百町の神田(土地)、神戸(人民)を領有し、左大巨橘諸兄の子諸貞より代々祭主職兼国司在庁をついで国司、勅使代、公文所、寺社を総管し、近郷を領有しました。
中世には武職をかね国府城主となり、祭りと政治を行っています。
正平、明徳、天正の時代には一万石の待遇をうけました。その子孫は現在もお宮の宮司をつとめています。又南町の忠臣和泉の国侍は国府城に屋敷をかまえ、妻子をおき、勤王の義兵の土地でもありました。ところが天正13年豊臣秀吉により石高を減ぜられ、明治6年には境内ひろ過ぎるとして一部を残し上地されています。
史跡 和泉清水・国府庁跡(現お旅所)・南朝戦死者の碑、和泉宮(元正、聖武天皇離宮)・小竹宮(神功皇后離宮)総社本殿(重要文化財) 古記録 後醍醐天皇・後村上天皇・長慶天皇論旨・国宣
信長朱印状、今井宗久添状・秀吉朱印状・口宣案その他
配祀社 事代主神社・大国主神社・菅原市辺磐坂神社(市辺磐坂神、道真公)・小竹神社(神功皇后)・白鳥神社(天照大神、日本武尊)・和泉神社(五瀬命、元正・聖武天皇)・春日神社(天照大神、天見屋根命)・勝手神社(髪授大神・美容、理容の祖)・熊野神社(伊邪那美命) -泉井上神社公式Webより
続いて、
天照大日霊貴尊 - 大鳥大社
天忍穂耳尊 - 泉穴師神社
天瓊瓊杵尊 - 聖神社
彦火火出見尊 - 積川神社
鸕鷀草葺不合尊 - 日根神社
上記五社をはじめ、和泉国62座
を奉齋した五社総社に。

五社総社 拝殿

拝殿ない

国指定重要文化財
泉井上神社境内社和泉五社総社本殿
泉井上神社は、「和泉」の地名の発祥となったと伝えられる「和泉清水」を祭っている神社である。
五社総社は、奈良時代に河内国から分離し、和泉国が設置された際、国府の所在地府中に、国内の五大社である大鳥、穴師、聖、積川、日根を総合して勧請し、参詣の便を図ったといわれている。
現在の本殿は、慶長十年(一六〇五)に、豊臣秀頼が片桐且元を奉行として再建したと伝えられるもので、国の重要文化財に指定されている。
正面桁行[けたゆき]三間、身舎[しんしゃ]側面二間、屋根が一間分前へ延びて庇[ひさし]をなす、「三間社流造[さんげんしゃながれづくり]」と呼ばれる形式で、桧皮葺[ひわだぶき]である。 正面と両側面には縁を廻して組高欄[くみこうらん]を設ける。向拝[こうはい]位置は浜床を張って半高欄[はんこうらん]を置き、五級の階段にも宝珠柱の立つ登高欄[のぼりこうらん]を設けている。また、内部は内外陣境を三枚の両開き板戸で分かつ。
主要部分は丹塗りで極彩色を施し、よく当時の様式を残しており、造営時期が明確な社殿として貴重である。
平成3年3月30日 和泉市教育委員会 -案内板より


和泉五社総社本殿


喜田稲荷神社 勝手神社


大阪府指定史蹟
和泉清水
昭和五十二年三月三十一日指定
古くから「国府清水」または「和泉清水」とよばれ、霊泉として祭られるとともに、農業用水として周辺の農地を潤してきた泉である。
社伝によると、泉は、神功皇后の新羅出兵の際、一夜にして湧き出たことから霊泉として祭られるようになったという。
水は常に清らかに澄み、その味は甘露であるとして広くその名を知られ、豊臣秀吉も大坂城に運ばせて、茶の湯に用いたという。
ここは古来、和泉国和泉郡和泉郷とよばれた地であるが、「和泉」という地名も、また「泉井上神社」の社名もこの泉に由来すると伝えられている。
平成十年三月 和泉氏教育委員会 -案内板より


大阪府指定有形文化財
石造板状塔婆
昭和四十五年二月二十日指定
砂岩製の板石で造られた塔婆で、一般には枝碑とよばれ、供養追善のために建てられたものである。
上部の梵字は、バク(釈迦)、マン(文殊菩薩)、アン(普賢菩薩)の釈迦三尊種子[しゃかさんぞんしゅうじ]をあらわす。下部に刻まれている銘文は、ほとんど消えており判読できないが、わずかに正平三年五月(1348)の年号は読め、南北朝時代のものであることがわかる。
もとは神社南方の和泉寺跡にあったものを昭和七年頃に現在地に移したものである。
府下では数少ない板状塔婆の中で特色ある形式を示しているものであるとして、大阪府文化財に指定されている。
平成十年三月 和泉氏教育委員会 -案内板より


和泉五社総社
泉井上神社 御朱印
つづく
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