~西へ~(63)8日目⑤ 紀伊国総社 大屋都姫神社 | どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

「野宿でもお腹に肉のつく身哉」

日本一周・全県に足跡を目標に、車中泊やキャンプをしながら、
大好きなラーメンを食べ、100名城を中心にした城めぐりや
神社仏閣に参拝し御朱印を頂く、旅の絵(写真)日記です。

 
                    近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら


紀伊国一宮三社のお参りを終え、伊太祁曽三神の最後、「大屋都姫神社」へ。




ご祭神の大屋都姫命(おおやつひめのみこと)は、素戔嗚尊の子で、
五十猛命の妹神、都麻都姫命の姉神であります。

   
 由来
『日本書記』神代ノ巻一に「又素盞鳴尊え子號曰 五十猛命 妹大屋津姫命次 抓津姫命凡三神亦能分 布シテ木種 奉 渡シ 於紀伊國 也 舊事紀地神本紀ニ曰五十猛握神亦云 大屋彦神 次大屋津姫神次抓津姫神已上三柱並坐 紀伊國造ノ齋祠ノ神也」とある。
當社古由によれば、「紀伊國名草郡宇田森村ニ鎮座 大屋津比賣神社祭神 大屋津比賣命 延喜式神名帳ニ所載 大屋津比賣神社 名神大 月次 新嘗 延喜式神名祭 二百八十五 紀伊國十一座 内大屋津比賣神社 一座有 右座毎ニ五尺綿一屯絲一約五色薄衣各一尺木綿二兩麻五兩裏料蔗廿枚若有大者加五丈五尺以布 端代絲一 三代實録ニ曰貞觀元(859)年正月廿七日奉授從五位下大屋津比賣神從四位下」
大屋都姫神社の御祭神は天照皇大神の皇弟素戔鳴尊の神女で五十猛命の妹神である。
この神は妹神の都麻都姫神命と御父神の勅を奉じ給い、御兄五十猛命の神業を助け八十木種を筑紫の国より播き始め、大八州国島の八十国残る隈なく播種し終りて、当地に鎮まり坐す木種播殖に著大な御功績のある神であり樹木の守護神として御神徳もあつい。
なかでも大屋都姫命は住宅・船・車・木具・薪・炭など木製品の守護神として崇敬されている。
仁明天皇嘉祥3(850)年・清和天皇貞観元(859)年に神階の御授進あり、その後寛治元(1087)年、堀河天皇熊野御行幸の時、特に御奉幣あり。
次いで長治元(1104)年に18町歩の神田、石町4面の社地を御寄進あったが大水の乱、天正の兵火にさしも宏壮を極めた宮居も灰燼に帰した。
『延喜式神名帳』に「紀伊国名草郡大屋都比売命、名神大月次新嘗」とあり、『本国神明帳』に「従一位大屋大神、三大実録に貞観元年正月二十七日奉授従五位下大屋都比売神従四位」とある。
本国神明帳に従一位とあるのは貞観以降増階のあったものである。
当社は兄神五十猛命、妹神都麻都姫命とともに日前国懸社地に鎮座あるも垂仁天皇16(紀元前14)年に山東の荘、亥の森へ遷座し文武天皇の御宇まで凡そ700年余り鎮座された後、大宝2(702七)年三神を三所に分遷したとき北野村古宮の地に遷り、更に今の宇田森神ノ木の地に遷座された。
明治6年4月村社に列し、明治13年7月に縣社に昇格せられた。 
-和歌山県神社庁Webより



 
鈴門に掲げられた社号は、木に墨書きでした。



本殿、脇宮ともに木造銅瓦葺王子造です。

 
 右脇宮:都麻都姫命            左脇宮:五十猛命


大屋都姫神社には、和歌山市北字宮ノ後にあった総社神社(旧村社)が
明治四十四年(1911年)に合祀されました。この総社神社は近世に
「総社大明神」とも称された神社であるが、祭神は明らかではありません。
(『紀伊名所図会』では日本武尊を祀るという)
延享三年(1746年)の『南紀神社録』やそれを受けた『紀伊名所図会』では、
「総社」という社名・鎮座地が紀伊国府の推定地に近いことから、
この総社神社が紀伊国の総社であろうとしております。



無人社で御朱印は頂けませんでした。




                             つづく







                当ブログの無断使用は禁止です。
                      メッセージにて確認をして下さい。その上で、 
                      文章引用・画像使用の場合は出典元URLを明記して下さい。